卒業オーディションのためのパートナーは、他クラスから選出してもよい。
 それが、生徒のためを思ったことなのかどうかはわからない。
 ただ、クラス分けはランク分けでもあり、そこに差がある者同士が組むことはあまりないらしい。
 
 おじからの情報を反芻し、海羽はふぅんと鼻を鳴らした。
 一学期は、順調に消化されている。
 毎日、課題に追われまくりだ。
 そんな中で、パートナーを探せなどと。
「んなヒマあったら、課題先行させるっつーの」
 ハードにもほどがある日々。





Episode.05 『カナリアはもう唄わない』




 
 その日の放課後は、海羽に用事はなく。
 ただ、なんとなく寮に帰る気がしなかったから、空いていたレッスン室にこもることにした。
 ピアノに向かって、指を滑らせる。
 気が付くと弾いてしまうのは、いつだっておじの曲“愛故に”だった。
「愛、か…」
 呟いて。
 頭の中のもやもやしたものを、払おうとするのだが。
 これがなかなかうまくいかなくて。
 ふとすると思い出してしまうことがあって、つい、顔が赤くなる。
「うわ、もう…なんなの、ボク…」
 時々ぶり返す、熱。
 早くなってしまう鼓動を抑えたい…けれど。
 指が滑り出し、奏でるのは、あのレコーディングテスト再試の曲。
 捨ててきたものをもう一度拾って、昇華したモノ。
 
 伴奏だけだったものに、歌が乗ったのは少し後だった。
 高く、澄んだ歌声は普段の彼女の声とはまるで違う。
 本来の歌い手用のテンポより、もう少し遅く。
 柔らかく紡がれる。
 心地よさ気に。

 その奏でが止まったのは、不意にドアが開いたことに気が付いたからだった。
 そう言えば鍵はかけなかったと思いだし、しかも自分が歌っていたことを自覚して。
「しまった」
 小さく呟く。
 ドア口。
 部屋の中を覗き込んでいるのは、男子生徒だった。
「…あっ、ごめんなさい。使用中の札がなかったので、あいてるんだと思って」
 どこか、おっとりした喋り方だった。海羽と眼が合うと、
「わぁ、早乙女さんじゃないですか!」
 ぱぁっと、笑顔になる。ミルクティー色の柔らかそうな髪、細いフレームの眼鏡。…見覚えはあった。
「っと、確かAクラスの四ノ宮…」
「はい、四ノ宮那月です!」
 覚えていてくれたんですねぇ、と。心底嬉しそうな顔をして、彼は部屋に入ってきた。手には、楽器のケースを持っている。
 海羽は、慌てた様子で、
「ゴメン、札つけとくの忘れた。えっと、いいよ。ボクもう帰るから、このまま使って」
 やや、早口に言って。
 鍵盤の蓋を閉めると、椅子から立ち上がった。
 けれど、
「あ、いえ、構いませんよぉ。せっかくですから、一緒にやりませんか?」
 なんて言われてしまって。
 え、と。海羽はあからさまに動揺した。
 今あまりコンディションが、なんていう言い訳が通じるだろうか。
「えっと、あの、四ノ宮」
「嬉しいです、一度あなたとセッションしてみたいと思っていました」
「え、ちょっと」
「あ、使用中の札下げますね」
「いや、だから、」
「うふふ」
 …だめだ。聞いていない。
 海羽は溜め息をついた。観念するしかないようだ。


 実際、海羽と四ノ宮那月は顔見知り程度だ。
 海羽がAクラスの七海春歌のところに行ったときに、姿を見かけていた程度。話したこともない。
 これは困ったな、と。前髪をかきあげて、また鍵盤の蓋を開ける。
 彼は知っているだろうか、海羽が譜面を読めないことを。
 これを改めて言うのは、なんというか。
 那月は、楽器ケースを開けて愛器を出すと、慣れた手つきで調弦を始める。
「…それ、ヴィオラ?」
「えぇ、そうです」
「へー…弦やるのか、キミ…」
「意外ですか?」
「いや、どうだろ。よく知らないのに、意外も何も」
 背の高い彼が、ヴィオラを構える姿は、案外サマになっている。
 ふぅん、と思いながら。海羽は、やはり白状しておかなければと思い、
「えっと。セッションは構わないんだけど、…ボクは譜面が」
 と言いかけるのだが。那月は、ちらっと海羽を見てから、にっこり微笑んだ。
「知ってますよ。オタマジャクシさんが音にならないって。翔ちゃんから聞いています」
「しょうちゃ…って、来栖?」
「えぇ。僕達、寮で同室なんです」
「あぁ、そうなの…」
 でっかいのとちっさいので、なんだか随分凸凹コンビなんだな…と思ったことは、とりあえず心の片隅にしまっておくことにした。小柄なことを気にしている翔に知られたら、噛みつかれることうけあいだ。
「ふふ。翔ちゃんがよく、あなたの話をしてくれるんですよ」
「え、ボクの? けど、そんなに親しくは…この間、課題手伝ったぐらいだけど」
「翔ちゃんは、あなたのこと好きみたいです」
「…そ、そう」
 好きって。どんなこと話してるんだろう。
 そこを詳しくと言いたいが、あえて流すことにする。
「僕も、あなたの曲好きですよぉ」
「っ、え?」
「ハルちゃんから、あなたの演奏が素敵だと聞いて。でもクラスが違うから、なかなか直接聴くことはできなくて。それで、学内のデータベースであなたの曲を集めて聴いていました。入学試験の時に提出したものとか、今までの課題のとか」
「……ぎゃあ」
 つい、言ってしまって。けれど、本当に『ぎゃあ』という気分だったから、飲み込めはしなかった。
「だから、直接聴きたかったんです」
「それは、それは…ありがとう」
 那月の素直な言葉は、なんだか照れくさい。
 海羽は、頬が熱くなるのを感じつつ、それを隠せるようにとうつむいた。束ねない髪が肩からこぼれて、彼女の顔を隠した。
「…で? 合わせるのはいいけど、なにをやるの?」
「早乙女さんの曲は全部覚えているので、それをと思っています」
 言いながら、那月は弦の上に弓を走らせた。
 それは確かに海羽の曲だった。
「うわぁ、なんか恥ずかしいな。でも、うん。…キレイな音、持ってるね、キミ」
「僕から行きます、つけてきてください」
 きちんと楽器を構えた那月の顔が、変わったと思った。
「いいよ。どこからでも」
「よろしくお願いします」
 弦の上を。弓が滑る。
 流れた旋律に、海羽は一瞬耳を澄ませて。
 改めて思う。
 あぁ、こういう音を出す人なんだ、と。
 ぎゅっと染みこんできた那月の音楽を、そのまま抵抗せずに自分の中に取り込んだ。
 心地いい。
 これに見合うだけの音が出せるだろうか…そう思いながら。
 指先から、海羽の音が放たれる。
 空間で融合する、二人の演奏。
 競い合うように、けれど反発することはなく。
 ベースは確かに海羽が発表してきた曲たちだが、那月が奏でるとずいぶん印象が変わった。
 それに合わせて、海羽も新しい気持ちでピアノをつける。
 こんな表現もあるのか、と。内心で感心しながら。
 そして、次第に頭の中が空になっていくのがわかった。
 代わりに入り込んでくるのは、那月の世界。
 本人と同じく繊細で、上品で。それでいてどこか、もどかしげにしている。
 解放されたがっている何かを感じ取って、海羽は。
 自分の中にも同じものがあると思った。
 ちょっと似てるのかもしれない…そんな思考がよぎる。
 ここを突破できれば、きっともっと世界が広がるのに。
「(…キミも。何か、…負っているのかな)」
 そんなことを考えたが、思考はすぐに音に塗りつぶされた。
 まぁいいや…と。考えることをやめる。
 そこからはただ、ひたすらに。
 音楽を、貪った。


 那月は案外タフで、おそらくは海羽の曲のほとんどを一気に奏でた。
 入学から現在まで発表した曲は、長くはないが数が多い。これだけ通してやるとさすがに困憊した。 
 エンドマークを付けた時には、海羽は少し意識が遠くなっていて。
 余韻が消え、那月が弓を下ろした直後に、ぐらりと体を傾けた。
「っ、早乙女さんっ?!」
 後ろに、のけぞるように倒れたから。那月は弓だけ放り出し、海羽の背後に滑り込むように入った。
 とん、と。海羽の背と後頭部が、那月の掌と腕で止まる。
 海羽の呼吸は、走った後のように上がっていた。仰ぐ天井に、那月の心配げな顔も入る。
「…何曲やるのさ、まったく…」
 呆れたように、文句を言うが。
「…けど、なんかすごい、楽しかった。途中、息するのも忘れてたかも」
 へらっと笑って、なんとか上体を立て直す。黒い髪が、さらりと動いた。
「ごめんなさい。僕も、とても楽しくて。つい、あれもこれもやりたくなって」
「…うん」
 海羽が呼吸を整えているうちに、那月は投げた弓を拾って、楽器とともにケースに戻した。
「何か、飲み物を買ってきた方がいいですね。僕、行ってきますから」
「あぁ…ごめん。ありがと。あ、これ使って」
 海羽が、ポケットからカードを出す。学園内で使うものだ。
「え、そんな」
「パシリはさせても、お代は出すよ。年下に出させるなんてしないさ。キミも、好きなの買って」
 ボクのはコーヒー以外で、と注文を付けて。
 那月は、仕方無げに海羽のカードを握ると、行ってきますと言って出て行った。

 ふぅ、と、息をつく。
 ネクタイを緩めて、第一ボタンを開けた。
 風に当たりたい気分だった。
 海羽はおもむろに立ち上がり、近くの窓を開ける。
 初夏の終わり、盛夏の手前。少し熱気をはらんだ風だったが、どこか涼やかにも思えた。
 自分の体が熱いのだと、自覚した。
 胸に手を当ててみる。鼓動が早い。
 疾走したから、だけだろうか。
 初めて知った那月の音は優しくも力強く、彼の音楽に対する情熱を知るには十分すぎるほどだった。
「…なんでAクラスなんだ、あの子は」
 技術の高さは、折り紙つきと思えた。長く、音楽を…弦を扱っているのだろう。
 翻弄されるかと思う瞬間は何度もあった。
 海羽は、彼という人物をほとんど知らない。
 これだけの実力があれば、Sクラスであってもおかしくないと思うのに。
 優しげな性格のせい? 実は本番に弱いとか?
 なんにしても、彼とのセッションは思いがけず収穫だった。
 一ノ瀬トキヤとはまた違う心地よさがあった。
 歌唱と楽器の違いだろうかとも思うが、それだけではないなと確信していた。
 ところどころ、記憶がない。弾いてはいたと思う。とにかく気持ち良くて。
「トランスしてたかな。はは、このボクをそこまで」
 なかなかやるじゃん、なんて。
 でも、心中は複雑だった。

 不意に、風が強くなったと感じた。海羽の長い髪が、大きく波打つ。
 それが、ドアが開いて風の通り道ができたからだと知って。
「おかえり」
 言いながら、海羽は緩めた襟を整えた。
 窓を閉めて、振り向く。
 ドア口。那月が、ジュースのパックを持って、どこか呆然と立っていた。
「…? どうしたの、来れば」
 椅子を持ってきて、ピアノの傍に置く。
 那月は、はっとした様子で、
「あぁ、ごめんなさい」
 などと言いながら傍に来た。
「悪いね、一人で行かせて」
「いいえ。近かったですし」
 どうぞ、と。渡されて、海羽は微笑んで受け取った。
「ありがとう」
 瞬間、那月の頬が少し赤くなったのがわかった。
「座っていなくて大丈夫ですか?」
「ん、もう平気。ごめんね、体力不足だ」
「いえ、こちらこそごめんなさい」
 気が付くと、謝罪大会になってしまう。
 海羽は、くす、と笑って、用意した椅子を那月に勧めた。海羽もさっきのピアノの椅子に腰かける。

「あの、早乙女さん」
「ん?」
「早乙女さんは、デビューに興味がないって、翔ちゃんから聞きました」
 パックにストローを刺していた海羽の、手が止まる。
「…うん」
「どうして、ですか?」
 理由。
 問われて、海羽は『最近多いな』と心で呟く。しかし当然だろう。この学園に在籍して、本当にデビューを目標にしていないのは海羽ぐらいなのだろうから。
「どうして、かな。結局のところ、覚悟ができてないんだと思うよ」
「覚悟、ですか」
「ん。何もかもを賭けて、挑もうっていう覚悟。キミ達みたいに」
 ぷちん、と。手元で音がして、ストローが刺さる。海羽は一口ジュースを飲むと、パックを置いた。
 指が鍵盤に吸い寄せられる。
 弾き始めたのは、やはり“愛故に”だ。
「執着することがね、なんかできなくて。どうしてもコレ欲しいとか、そういう欲求がないんだ。けど、芸能界なんてところで生きて行こうと思うなら、何よりもまず貪欲でなければならない。競争社会の極みみたいなところだよ? 友達だろうが家族だろうが踏み台にして、自分がのし上がっていかなきゃならない。…意味あるのって思う」
 那月は、海羽の言葉を聞きながら。じっと彼女の手元を見ている。
 その視線に気が付いて、
「あは、気になる?」
 海羽は小さく笑う。
「えっ?」
「いやぁ、めちゃくちゃでしょ、指運び。ちゃんと習ったわけじゃないから、自分の弾きやすいように動かしてるんだ」
 見苦しくてごめんね、なんて。海羽は言ったが、那月は首を横に振った。
「いえ、違うんです。…こんなに綺麗な音を奏でる人なのに、デビューしないのはもったいないなぁって思ったんです」
 思わず、海羽の手が止まる。
 その、止まった手。自分に近い方…右手に、那月は触れようとして。
 海羽は、はっとして手を引っ込めた。
 触れられず、那月の指先がピクリと攣る。
「…あ、ゴメン。けど、その。触られたくなくて」
 誤魔化しようがないから、海羽は正直に言った。
 那月も手を収めて。拒絶されたことにか、ずいぶん落胆した様子ではあった。だから、だろうか。
「っあ、えっと。別に、四ノ宮だけがダメとかそういうのじゃないから」
 つい、フォローをしてしまった。
 とはいえ、それがフォローとして成立していたかはわからない。
 那月は、微かにだが笑った。
「知ってますよ。早乙女さんが、男嫌いって言うのは有名です」
「そ、そう」
「だから、今日はちょっと、わがまましてしまって」
「え?」
「本当は、嫌だったんでしょう? 僕とセッションするの。でも、僕はしたかったから、あなたが渋っているのを聞かないふりをして、おし通しちゃいました」
 ごめんなさい、と。那月は頭を下げる。
 海羽は、ぽかんとなって。まじまじと那月を見た。
 なんだろう、イメージと違うような。
 海羽が知る、わずかばかりの那月の情報は、マイペースではあってもゴリ押しをするタイプではないはずだった。
 てっきり、そのマイペースぶりで海羽の言葉を聞いてないだけだと思っていたのに。
「どうしても、あなたの音楽を聴きたくて」
「そ、そこまで…?」
「はい」
 しっかりと頷いた那月に。海羽は、
「物好きだね…」
 と、呟いた後。
「じゃあ、時々、一緒にやろうよ」
 その発言に、今度は那月のほうが呆ける番だ。思いもよらない誘いだった。海羽が自分から、そんなことを言いだすなんて思わなかったのだ。
「え…いいんですか?」
 信じられない、と。そう言いたげな表情をして。
 海羽は、自分でも『よく言えたな』と思いつつ、
「うん。楽しかったから。四ノ宮がよければ、またお願いしたいな」
 添えつけた笑顔は、我ながらうまくできた“海羽様スマイル”。
「もちろんです! わぁ、嬉しいなぁ!」
 そして那月の笑顔はまた、全開の天使スマイルで。
 その煌めきっぷりに、海羽は思わずたじろいだ。
「さすが、アイドルコース…まぶしいね、笑顔が」
 皮肉のつもりもなく、するっと出た言葉に。那月は、嬉しそうにしながら、
「早乙女さんの笑顔も、素敵ですよぉ」
 などと、通常ならばこれは社交辞令だと思える海羽だったが、
「そうだ。ねぇ、早乙女さん。どうして、アイドルコースじゃないんですか?」
 そんな問いかけを続けられて、流している暇もない。
「え?」
「だって、早乙女さんはすごく美人で、笑顔も可愛くて」
 その、後。
「あんっなに、素敵な声で歌うのに」
 瞬間。海羽は、頭から冷水を浴びせられたような気になった。ざぁっ、と。音を立てて血の気が引いたのがわかる。
 やっぱり、聞かれていた。
 もしかしたら大丈夫かなと思っていたのに。
「…早乙女さん? 顔色が」
「う、歌のことは全部忘れてくれないかな」
「え?」
「ボクが! 歌ってたことと! 歌声と! とにかく、関すること全部忘れてって言ってるの!」
 突然の大声に、那月はびくっと身を震わせた。
 海羽は、大きく肩で息をして。それから、
「…ゴメン。でも、嫌なんだよ…」
 鍵盤に手をついて、そこに額をつける。不協和音が部屋に響いた。
 那月は困った様子で、おろおろしていたが、
「上手でしたよ? 僕は、好きだなと思いました」
「そこじゃない。上手いとか好みとかそういうのじゃないんだ。ボク自身が、ボクの声が嫌いなの。歌声が、一番嫌いなんだ」
 コンプレックス、というのだろう。
「地声はこんな低いのに、歌声は馬鹿みたいに高くて。地声で歌うこともできるけど、やっぱりなんか嫌なんだ。おじ貴は、“一人で男声パートと女声パートが出せるのは武器にできる”なんて言ってたけど」
「僕も、そう思います。きょうだいユニットみたいに、とてもよく調和するのではと」
「いや、もう、キモチワルイだけ」
「そんな」
「フォローしなくていいから。どうあっても嫌いは嫌い。…そりゃ、自分で作った曲を試しに歌うぐらいはするけど。人前で歌うなんて、絶対ヤダ」
 だから忘れて。
 そう言い切る海羽に、那月は仕方無げに、こくりと頷いた。
 もったいない、と心底思う。けれど、本人がこれだけ嫌悪しているものを、今これ以上誉めても意味はないと思えた。
 ただ、理由を知りたいと思った。奏でることを日常としているのに、歌わない理由。
「シンガーソングライターも、いいと思うのですけれど」
 直接聞いても教えてくれないだろうから、なるべく遠まわしに話をする。
 海羽は、肩を落とし、
「…いいんだ。歌いたくない」
「そうですか…」
 この話題を終わらせたいと、彼女が全身で訴えている。
 そんな彼女が、俯いて。どこか憎々しげな印象で、
「…歌った曲もよくなかったな。アレは、ボクが歌ってはいけない」
 呟いた。
「え?」
 那月は首を傾げる。聞こえてきたあの曲は、海羽が作ったものだ。レコーディングテストの再試で提出されたという曲。それまでの彼女の楽曲傾向とは違う、異色とも言えるものだった。
「あの曲は、もう一ノ瀬の物だから」
「トキヤくん、の」
 歌い手は、一ノ瀬トキヤだった。Sクラスの中でも抜群の歌唱力を持っている。
 一度目のチャレンジの曲は、テストが不合格だったこともあって学内のデータベースには上がらなかった。だから、那月はその曲を知らないし、トキヤがどんなふうに歌ったのかもわからない。
 那月が知っているのは、さっき彼女も歌った、合格になった方の曲だけだ。
 その曲を初めて聞いた時の感情は、今もはっきりと思いだせる。
 聞くたびに、同じ感情が湧くからだ。
「トキヤくんの曲だから、他の人が歌ってはいけないんですか?」
「いけない、こともないけれど。でも、ボクが歌うのはちょっとな。ナニサマだよって感じする」
 苦笑した海羽は、静かに指を鍵盤に滑らせた。奏でられるのは、そのトキヤの曲。
「…もともとボクが、ボクのために作った曲。歌うって意味じゃなくてね。…曲にすることでこの旋律に閉じ込めて、置いて来ようとしていた…終わった恋」
 ぴくん、と。那月が肩を揺らした。
 今、海羽はなんて?
「恋、ですか?」
「うん。たまたま弾いてたら、たまたま一ノ瀬の耳に入っちゃって。リベンジ、この曲がいいって言うから。…やだったけど、彼なら…うまくやってくれるような気もして。おかげさまで、すっきりした」
 …直後。
 がしゃん、という形容に近い音が、部屋に響いた。
 不協和音。
 那月の手が、鍵盤の上の海羽の指先を掴んでいた。
「し、のみ…」
 何が起こったのか、海羽は即座には理解できず。ただ、掴まれた指先が痛みを訴えた。
 那月は俯いている。柔らかな髪が、小さく揺れていた。…震えているのは、指を掴む手からも伝わっている。
「それ、って」
 少し、声が低い。
「…早乙女さん」
「な、なに」
「もしかして、トキヤくんのこと、好きなんですか?」
 は?
 何故そんな問いかけが出てきたのだろう。
 海羽は、何言ってるの、と那月を窺う。
 顔を上げた那月の目は真剣で、海羽は思わずぎょっとする。
「だって、なんか、…特別みたいです。あげたくなかった曲をあげて、それが彼を信じているからで、…その、えっと…」
 那月の言葉尻が弱くなっていく。海羽の、怪訝そうな顔を見たからだろう。それでも、彼女の指を掴む手は緩めない。
「…そもそも、さ。四ノ宮。仮にボクが一ノ瀬を好きだとして、それ、キミに関係あるの?」
 どこか冷たく、海羽は言って。
 那月は、きゅ、と唇を引き結び、それから掴んでいた彼女の指を放した。
 関係あるか、と訊かれて。どうこたえるのが一番いいのか、那月は即座に判断できなかった。
 ただ、
「…ごめんなさい。我儘なことを…考えていて。僕も、早乙女さんの曲で歌ってみたいと…思っているので」
 そう答えるのが、精いっぱいだった。
 海羽は首を傾げる。
「あぁ…クラス違うからか。同じ課題が出るわけじゃないし、クラス分けがランク分けだから、実際SとAってあんまり交流しないって、おじ貴も言ってたな」
 解放された指が、また鍵盤を滑り始める。今度は、別の曲だ。“愛故に”の旋律。
 衝動の行動を恥じているのか、単に気まずいのか。那月は、その大きな体をぎゅっと縮めている。
 しばらく、沈黙があって。
 海羽は、ピアノを弾く手を止めた。そして。
「四ノ宮の…歌、か…」
 ぽつ、と呟いて。思案顔をし、
「なんでだろう。キミが歌う姿が想像できない」
「えっ?!」
 がん、と。ショックを受けた顔をして、那月は海羽を見る。
「多分、楽器を使う姿が先だったからだと思う」
「そんな」
「どんな曲を歌うのか、そして似合うのか。想像がつかない」
「だっ、ダメですか? 僕…」
 ますますしょげ返る那月に、海羽は、
「いや、ダメなんじゃないんだけど」
「けど?」
「……んー。いや、これはボクの認識不足だから。キミに何かあるわけじゃない。気にしなくていいよ」
「気になりますっ」
「アイドルとしての資質をダメ出ししてるんじゃないよ。入学してるってことは、少なくともシャイニング早乙女の眼鏡にはかなってるってことなんだから」
「でも、あなたには…」
 あなたには。
 言いかけて、また那月は俯いた。
 どう言ったらいいのだろう。どう言えば、彼女は理解してくれるのだろう。
 理解、それ以前に…どうすれば彼女は、受け入れてくれるのか。
 触れてしまったせいか、彼女の周囲の空気は硬質さを増し、雰囲気が壁を作っている。それが、目に見えそうなほどにはっきりとわかる。
 これは、静かな拒絶。
 はっきりと言葉や行動に出さないのが、逆に攻撃力を強める。
 失敗した、と。那月は、心の奥で呟いた。
 静寂が降りる。
 楽しかったはずなのに、気持ちはすっかり冷えてしまっていた。それは、お互いに…なのだろう。
 けれど、
「…四ノ宮」
 不意に、海羽が那月を呼んだ。
「はい?」
 取り繕う笑顔も出ず、ただ返事をした那月に。
「…その。ボクはあまり、他人と音楽をしたことが、…なくて」
 そんなことを言い始めた。
 那月は小さく首を傾げる。
 言い淀むような、口調と仕草と。
 それを誤魔化すように、彼女は周囲の片づけを始める。撤収するのだろうか、那月も疑問顔のまま、椅子から立ち上がった。
 それと同時に、どこかから電子音が聞こえてきた。携帯のコール音だと気づき、持ち主はやや慌ててその場に向かう。少し離れたところに置いてある、海羽のカバンから鳴っていた。
 取り出して、通話をはじめて。いくらかの短い会話の中に、現在位置と、これからの予定とが入っていた。
 ややあって、了解、の一言で彼女は通話を終了させた。携帯を鞄にしまう。そして、
「ごめん、ちょっと用事、はいった」
「あ、はい。帰りましょう、か」
 強制終了のような感じになってしまった。それでも、ようやく笑顔を見せた那月に、海羽は向き直り、
「楽しかった、今日。本当に」
 そう言った。
「次は、いつにしますか?」
 問われて。海羽は、一瞬だけ戸惑った様子を見せたが、
「スケジュール次第だな。しばらく、課題で忙しいんだ」
「そうですか…」
「空いたら、ボクから誘うよ。来栖経由とかでもいいんでしょ?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
「じゃあ、そんな感じで」



 レッスン室を出たのは一緒だったが、海羽は那月とは逆方向に向かうと言った。電話は日向龍也からで、学園内にいるなら手伝ってほしいことがある、という内容だった。
 じゃあね、と気さくな挨拶で、海羽は那月に背を向ける。
 颯爽と歩いて行く背は、いつもの彼女に見えはした。
 けれど。
「…僕でもわかるくらい、態度が変わりましたね」
 白々しいほど爽やかな最後だった。
 いつにするか、と言って。ほんの僅かの困惑の後から、様子が違う気がした。
 嘘、なのだろうか。楽しかった、というのも。
 いつかは決まっていない、“次”も。
 でも、そうなる前に、彼女は「またやろう」と言ってくれたから、嘘ではないはずだ。
 ならどうして、あんな風に態度を変える必要があったのか。
 変わる直前の、『あまり、他人と音楽をしたことがなくて』のあたりは、らしくないほど弱弱しい感じがした。
 もしかして、そんな部分を見せてしまったから?
「憶測ばかり。…僕もあなたを知らなさすぎるんですね、早乙女さん」
 呟きが、誰も居ない廊下に沈む。

 知らない。
 彼女が歌わない理由も。
 接触を嫌う理由も。
     知りたい。






2013.05.11 初アップ/2013.11.11 第一改訂