六月末、某休日。
 その日は朝から蒸し暑くて、いっそ雨が降ればすっきりするのにと誰もが思うようなずっしりとした曇天だった。
 重苦しい気温と気圧は夕方まで続いて、結局解消はされないままだ。
 買い物に出ていた四ノ宮那月は、その帰路で。木陰にうずくまる、人影を見つけた。
「あれは…」
 束ねない黒髪が、まるくなった背を流れている。毛先は地面についていて、本人はそれを気にする風でもない…というよりも、それどころではないのだろう。
 こんな天気だ、他に人通りもなく。
 足は、自然とそちらに向いていた。





Episode.07 終わらない夏、消えない痛み





 木の幹に手をついて体を支えている。上下する肩が、息苦しいのだと訴えていた。
「あの」
 声をかけてから、そっと肩に触れると。大げさなほどにびくっと震えて、那月を仰ぐ。
 青白い顔色。けれど、間違いなく。
「やっぱり。早乙女さんでしたね」
「…四ノ宮…?」
 弱弱しい声だ。学園で見かける彼女とは、ずいぶん違う。
「大丈夫ですか? 具合が悪いんですね? 貧血でしょうか」
「…平気、もう少しじっとしてれば」
「平気っていう顔してないです。救急車を呼びますか?」
「そんな、大げさな…」
「じゃあ、寮まであと少しですから」
 そう言いながら。『ちょっと持っててくださいね』と、自分の手荷物を彼女に渡して。
 すっと、その体を抱き上げた。
「っ、ちょ!」
 思わず声を上げると、目の前がクラリと回った。たまらず、海羽はきつく目を閉じる。
「大丈夫ですよ。寮まで運ぶだけです。暴れないで」
「……っ」
「暑気当たり、でしょうかねぇ」
「………」
 暴れるなと言われても、どのみち力も出ない。
 諦めた様子で吐息した彼女を、ちらと見降ろして。
 那月は、そこからは黙って、寮までの道を歩いた。



 女子寮に着いても、那月は彼女を下ろさなかった。部屋まで連れて行く、と言い張るので、海羽も仕方なくそうしてもらう。下手に騒いで人が集まりでもしたらその方が厄介だと思ったからだ。
 自室のドアの前まで、誰にも会わなかったのは奇跡だろうか。
「もういい、ありがとう。とても、助かったよ」
 床に足をつけて。ようやく下ろしてもらえた安堵感が、表情でわかるほどだ。
「本当に、大丈夫ですか? 顔色はまだ全然…」
「うん、いいから。キミも出かけてたところだったのに、悪かった…ね」
 海羽が持っていた那月の荷物を渡して。
 ドアの鍵を開けた海羽は、さっさとその向こう側に行ってしまった。
 那月は、閉じてしまったドアを見つめて溜息をつくと、踵を返した。
 一歩。進もうとしたところで。
 ガタン、という音が、ややもち派手に聞こえた。
 海羽の部屋からだ。
「早乙女さん!」
 まだ鍵のかかっていないドアを開ける。
 見えた、すぐのところで。
 床に伏す、海羽を見つけた。
「やっぱり! 大丈夫じゃないでしょう!」
 細い肩を掴んで、仰向ける。
「…いい、のに」
「よくない!」
 ピシャン、と言って。那月はもう一度海羽を抱え上げると、部屋の奥へ向かう。
 寝台はひとつ。同室は、いないらしい。部屋の半分が、がらんと開いていた。
 とりあえず、白いシーツの上に海羽を下ろすと、
「空調、入れますね」
 ベッドサイドのミニテーブルの上にリモコンを見つけて、すぐにスイッチを入れる。
「いい、大丈夫…」
「寝ていて!」
 強い口調で言われ、海羽は吐息する。
「…じゃあ、水を持ってきてくれないかな…」
「お水ですね」
 部屋の作りは男子寮の方と一緒だから、どこに何があるのかの大まかな場所はわかる。
 那月は、ぴゅっと簡易キッチンのあるほうに行った。
 ややして、グラスに一杯の水を持って戻ってくる。
 寝台の上。上半身を起こして、けれども右手で体を支え、左手で額を抑えている海羽を見つけて。
「一人で飲めますか? お手伝い、しますよ」
「それは、いらない。飲める、から」
 グラスを取ろうとして、支えの右手を出そうとすると、体が揺らぐ。じゃあとばかりに支えに戻して左手を出そうとしたら、
「遠慮しないで」
 那月の言葉とともに、グラスが少し遠ざかった。
「あ…」
 代わりに、那月の左腕が海羽の肩に回る。彼女の上半身をそれで支えて、右手に持ったグラスを唇に近づけた。
「ゆっくり飲んでくださいね」
 グラスのふちが、海羽の唇に着いて。少しずつ傾けた。
 小さく開いた彼女の口に、冷えた水が流れ込む。
 こくん、こくんと。四口程喉に流してから、彼女は唇を閉じてふるっと首を横に振った。
「もう、いいですか?」
「ん…」
 グラスが離れていく。那月はそれを床に置くと、開いた手をまた海羽の膝がしらの裏に差し込んで、少し体を動かした。上半身を倒した時に、ちゃんと頭が枕の上に来る場所へ。
「もしかしてご病気、ですか?」
 念のために訊く。持病があるのなら、もう医師を呼ぶ方がいいだろうと思っていた。 
 けれど海羽は、
「メンタルの問題。夏が…嫌いで」
 溜息のように息を吐きながら、そう言った。
「涼しいところで横になってれば、大丈夫」
 ゆっくりと、那月が海羽の体を倒していく。背がシーツについて、枕がぽふりと沈んだ。
 肩を支えていた那月の腕が、静かに抜かれる。
「…迷惑、かけたね」
「いいえ。気にしないでください。迷惑だなんてことないですから」
 微笑んで。那月は、さっき床に置いたグラスを片付けに行く。
 海羽は。
 ふぅぅ、と。大きく息をついた。
 部屋が涼しくなってきて、やっと息苦しさが取れてくる。
「ほんと…夏なんて」
 ダイキライ、と。呟いて、目を閉じる。
 足音が戻ってきた気がしたが、海羽の意識はまた遠くなっていて。けれどそれは、今度はただの睡魔のようで。
 そのまま、すとんと落ちてしまった。


 眠っちゃったのか。
 寝台の上。目を閉じている海羽。呼吸は規則正しい。
 那月は、逡巡する。
 帰ってもいいのかもしれない。でも、そうすると部屋の鍵は?
 寮の部屋のドアには郵便受けなんかないから、鍵をかけてからそこに入れておく、なんてことはできない。
 持って行ってしまったら、彼女が困るかもしれない。
 一度帰って、あとで出直す? それもなんだか違う。
 隣の人に預けておく、という手もある…が。
 いろいろな考えが頭を巡っていくが、そのどれも“採用”にはならない。
 視線は、一点に釘付けだった。目が離せなくなっていて、それが思考を妨げている。
「…寝顔…可愛い…」
 つい。呟いた。
 眠っている海羽は、さっきまでの苦しそうな顔じゃない。
 落ち着いたのか、どこかあどけない印象。
 那月は、ベッドの端に腰を下ろした。
 見ていたい。
「…ずっと、こんな瞬間を待っていたと言ったら、驚かせてしまうかな…」
     ずっと。
 彼女との距離を、どう縮めたものかと思っていた。
 先日の偶然のセッションも、実は完全な偶然ではないと彼女が知ったなら。
 放課後の彼女が、よくどこかのレッスン室にいるらしいというのを、那月は噂で聞いていた。だから、もしかしてと思って行ってみていた。可能性がどのくらいだとか、そんなものはわからない。ただ、確率的にはとても低いとは思っていた。なにせ、あの日出会うまで、空振りだった日は決して少なくはないのだ。
 やっと、彼女を見つけた。
 これは絶対に逃せないチャンスなのだと、那月は確信した。
 彼女と親しくなるための一歩は、今しかない。
 だから、たまたまを装って部屋に入り、挙句に彼女とのセッションを押し通した。
 こうでもしなければ、距離など縮まらない。
 クラスが違うのももちろんそうだが、早乙女海羽の男嫌いは本当に有名な話だ。
 男女比から行けば、男子のほうが多いあの学園内で。
 海羽とまともに会話をするのは、Sクラスの一ノ瀬トキヤ・神宮寺レン・来栖翔の三人だけなのだから。
 その中に入るのは、容易なことではない。
 寮で同室である翔に仲介を頼むこともできただろうが、それはなんだか違う気がした。
 自分で、掴みたかったのだ。
 この、きっかけだけは。

 早乙女海羽、入学時点ですでに成人していると聞いている。
 男装をしているのは本人の意志であり、一人称はボク。男っぽく振る舞っているのも知ってはいる。そんな彼女を、一部の女子は『海羽様』と呼んで慕っている。
 実際、物腰は至ってスマートで。女の子のエスコート術には長けているように見えた。
 年長者であるせいもあってか、いつも落ち着いて余裕のある態度で振る舞っている。
 けれど。
 女の子たちから見れば、海羽は背も高いし声も低めで、中性的な魅力があるのだろう。
 でも、那月から見れば、海羽は普通の女性だ。
「何があったんです? …あなたはとても素敵な女性なのに。どうして、男性のふりをしたいの…?」
 問いかけても、答えが返るわけじゃない。
 でも、訊いてみたかった。
 自身の存在を否定するのはどうして、と。


 いくらかの時間が過ぎて。
 不意に、ぱらっという音が聞こえた。
 防音の部屋だが、完全に音を遮断しきるわけではない。
 しかも今のは、音というより振動のようで。
 那月は、はっとして窓を見た。
 ベッドから降り、窓際へ。ひいてある、レースのカーテンを開けてみると、窓に雨粒が付いていた。
「…降ってきちゃった?」
 かすれた声が聞こえて。今度はそちらを振り返る。
 寝台の上。横になったままの海羽が、顔だけこちらに向けている。目は開いていて、彼女は那月ではなく、その向こうの窓を見ていた。
「えぇ。結構、強い降りのようです」
 カーテンを直して、またベッドサイドに戻る。
「ごめん。ボクが寝落ちたから、帰れなかったのでしょ」
「あぁ、いえ。そんなに長い時間ではなかったですし。…白状すれば、寝顔を見ていました」
「………………」
 海羽の表情が、次第に険しくなっていく。
「そんなの見て、面白くもないでしょうに」
「そんなことないですよぉ。とっても可愛いと思いました」
 瞬間。
 彼女の顔が、かっと赤くなったのがはっきりとわかった。
「へ、変なこと、言わないで」
「変じゃないです。本当のことですよ」
 悪意なく、屈託なく微笑む那月を見て。けれども海羽は、『気安いな』と意識下で吐き捨てる。
「…そういうのは、ボクじゃなくて、ハルちゃんとかに言うべき言葉であって」
「早乙女さんは、可愛いと思いますよ?」
 この間も言った。それが、社交辞令でないことは、いよいよ海羽もわかってくれたようだ。
「…勘弁して」
 彼女は、苦笑のような呟きをこぼして、両腕で顔を隠す。ちらりと見えている耳が、もうこれ以上ないと言うほどに赤い。
 その様子が、那月には少し意外だった。海羽は普段、同じことを女の子たちに言っている。言い慣れた言葉のはずだ。それなのに。
「ひょっとして、言われるのは慣れてないの?」
 囁くように言って。那月が、海羽の腕を退かそうとする。手が触れた瞬間、
「っ、触らないで!」
 ばっ、と。海羽は、那月の手を払いのけた。
 勢いがあったのと、案外那月の顔が近かったのと。海羽の指が、彼の眼鏡をひっかけて、気づいた時には少し離れた床の上に吹っ飛ばしていた。
 かしゃん、という音がして。
「あ、ごめ」
 海羽が慌てて拾いに行こうとして。
 けれど。
 起き上がりかけた彼女を、強い腕がシーツの上に押し戻す。
「えっ」
 肩に置かれた、那月の手。
 押さえつけられて、海羽は那月を見た。
 …明らかに、雰囲気が違う。
「オマエ。なにしてくれンだよ」
 口調も違う。
 どういうことなのか。
「生意気なんじゃねェの…?」
 口元に、歪んだ微笑み。
 海羽の背に、ゾクリと冷たいものがおりる。
「し、の、みや…?」
「あぁ。そうだぜ。四ノ宮だ」
 言いながら。那月は、海羽の上に乗り上げてくる。
「っ、ちょっ」
「親切に介抱してやったのに。なに、つまんねぇ拒絶してやがるんだ」
「どきなさい!」
「命令? 馬鹿じゃねェの。聞くわけないだろ」
 肩を抑えていた手が、するりと滑ってシャツのボタンにかかる。
 焦った海羽がそれを阻止しようとしたが、その彼女の両手をまとめて掴みあげると、彼女の頭の上に押さえつけて固定した。
「な、にをっ」
「訊かなくてもわかるだろ。そっちの方がトシも上なんだし」
 眇める、眼差し。
 同一人物とは思えない。
 那月の唇が、海羽の耳元に寄る。
「っ、四ノ宮!」
「うるせぇよ」
 声が、吐息が。ダイレクトに耳にかかって、海羽の体が震えた。
「せっかくだからな。“お近づきのシルシ”ってやつだ」
 指先が、シャツのボタンを外していく。
 海羽はまるで身動きが取れず。抑え込まれているのもそうだが、意識の底から湧きあがってくる“何か”にすっかり萎縮してしまっていた。

 それは、恐怖。
 けれど、記憶。

「や、やだ、離して! 離れて!!」
「ご冗談」
 ついにボタンが全部外れて。するりと、那月の手が海羽の肌に触れる。
 脇腹をなでられて。
「離れて!」
 海羽が叫んだ、その後に。震え切ったファルセットが、紡いだ。
 『みんなが、燃えちゃう』
 それと同時に。那月は、自分の指先が感じた違和感に気が付いた。
「…オマエ…?」
 海羽の、肌を。露わになったところを見る。
 肌の色が、おかしい。不自然に、色が違う。
 触れている脇腹はまだシャツに隠れていて見えはしないが、感触がおかしい。
 もう一度、今度は確かめるように指を滑らせた。
 決して小さくはない、肌が引き攣れている。これは傷痕ではないだろうか。そして、肌の色が違うのは…もしかして。
 “燃える”と。彼女は言った。
「火傷…?」
 嗚咽が聞こえた。
 はっとして、那月は海羽の顔を見る。固く瞑った彼女の瞼から、大粒の涙があふれては零れた。
 両手の拘束を解いてやると、海羽はその手でシャツの前を掻き合わせると、体を横向きに変えて丸く縮こまった。
「……見ないで…離れて…火が、火が来ちゃう…」
 絞り出すような声だった。
 けれど、言っている内容がかみ合っていないようにも思えた。
 彼女の思考を、なにが支配したと言うのか。
 那月は、大きく吐息した。
 そして、海羽の上から退くと、ベッドを下りて眼鏡を拾いに行った。
 ちら、と。寝台の上を見る。
 小さくなって震えている海羽。
 もう一度、吐息して。
 ベッドに戻る。端に腰掛けて、
「…悪かった」
 ぼそり、と。謝罪を呟く。
 眼鏡を、傍のミニテーブルの上に置く。
「悪かったって」
 こちらに背を向けている海羽は、一瞬だけ、こくりと頷いた。


 数分後。海羽は、少しずつ体の緊張を解いて、そしてゆっくりと起き上がった。
 シャツのボタンを留めなおそうとしているが、うまくできないでいる。
「やってやる」
 彼が手を伸ばすと、また彼女がびくっとなる。
「…もう、何もしない。ボタン留めてやるだけだから」
 指先は、極力海羽に触れないように意識されている。
 海羽はその様を見下ろして、まだ零れる涙を手の甲でごしごしと拭った。
「オマエ、そんな拭き方したら腫れるぞ」
「…いい。明日は、学校行かないから」
 ようやっと、まともな言葉が出た。
「行かないって」
「おじ貴はわかってる。毎年だから」
「はぁ?」
「お墓に行った次の日は、ボクが部屋から出ないの知ってるから」
 ボタンを留め終わった那月が、手を引っ込める。
「お墓?」
「…キミ、もう一度名前、教えて」
 まだ潤む目を、それでもまっすぐに向けて。海羽は問いかける。
 那月は、その視線を直接受け止められず、少し逸らして、
    サツキ」
 ぽつ、と。答えた。
「さつき?」
「あぁ。俺は、四ノ宮砂月だ」
 今度は、はっきりと。
 海羽は、そう、と頷いた。
「解離性同一障害、だね」
 口調が少しだけ落ち着いた、ように見えた。
「ムズカシイ言い方すんな。二重人格だろ」
「それは、差別的だと思う。眼鏡がスイッチ?」
「まぁな。視界がぼやけると那月が不安になって、俺が出る」
「そう。だったら、余計にゴメン。ボクが、乱暴なことをしたから」
「オマエ、何言ってんの。オカシイんじゃね? 乱暴なことしたのは、こっちの方」
「人格が切り替わってすぐは、状況に混乱して暴力的になったりするって…あると思う」
「何、冷静になってんだよ。さっきまでガタガタ震えて泣いてたくせに」
「…震えてるよ。怖いよ。思い出して、…いつもは思い出さないところまで引っ張り出されて、正直どうしたらいいかって頭の中グチャグチャだよ。もう、なんでこんな…よりによって今日とか…」
 確かに。海羽の体はまだ、小刻みに震えている。考えないようにしたいのだろう、他のことを話すのは、そういうことなのだろう。
 那月…否、砂月もそれを察した。けれど、
「何が、あったんだ?」
 どうしてもそれが気になったから。彼女が目を逸らそうとしているところを、引いた。
 海羽は。しばらく黙っていた。言いにくいことなのは砂月もわかっていたが、聞かずにはいられなかった。
 広範囲の火傷跡。脇腹の裂傷も、尋常ではない。怯えた彼女が発した言葉、そして。
 それを引き出したのが、砂月が“しようとしたこと”なら。
「…ボクが知っていることが、全部“正解”かはわからないんだけどね」
 まだ震える声で、彼女はそう前置きして。
 一度、大きく深呼吸した。
「…七年、かな。八年かな。そのぐらい前。の、今日。日付が変わってすぐの頃。ボクのうちで、事件が起こった」
 

 深夜。
 物音で目を覚ました海羽は、視界を確保するために読書用のルームランプをつけた。
 音は一階からで、両親と弟がいるはずだ。
 ややして、階段を上がってくる足音が聞こえて。
 弟かな、と初めは思った。
 けれど、足音は子供のものではないと思った。
 「お父さん?」
 ドアの前で止まった。ドアが開く。
 そこにいたのは。
 黒い服に身を包んだ、知らない男だった。
 ギクン、と。心臓が締め付けられる。
 「え、誰」
 男の手元で、何かが光を反射した。
 それが刃物で、ぬらぬらとした赤い滴を纏っていることも見えた。
     まさか。
 男は顔を隠していなかった。
 青ざめた海羽を見て。
 笑った。
 口が動く。それは、確かに。
 
  ミ ウ

 と、紡いだ。
 恐怖で動けない海羽を、男は容易く組み敷いた。
 ちらつかせる刃物から、強い鉄のにおい。
 男は何度も海羽の名を呼んだ。
 パジャマを引き裂き、彼女の白い肌に欲を刻む。
 悲鳴も上げられなかった。
 ただ、涙がこぼれた。
 見えている、あの刃物の血が。
 大切な人たちのものだと、気づいてしまったから。
 やがておぞましい行為が終わり、男は海羽を見下ろした。恍惚とした表情。
 そして、振り下ろされた刃物は、海羽の脇腹を裂く。
 今度こそ上がった悲鳴、あふれ出た血を、男はずいぶん嬉しそうに眺めていた。
 やがて、ふいと部屋から出ていく。
 しばらくして。煙が、立ち込めてきていると気づいた。
 家に火をつけられた。
 その頃にはもう、海羽の意識はもうろうとしていて。
 家族を殺されたこと、自分が穢されたこと。
 そして、すべてを飲み込む炎が迫っていること…
 それらが理解できても、もうどうすることもできなかった。


「ボクの意識が戻ったのはそれから一週間後。ボクだけが助かった。かろうじて。重度で広範囲の火傷と、脇腹に裂傷…それでも、ボクだけが。炎は、お父さんもお母さんも弟も連れて行ったのに、ボクは置いて行かれた」
 ぽろ、と。海羽の瞳から、涙がこぼれる。
「犯人は、ボクの知らない人だった。でも、向こうはボクを良く知ってた。その人の部屋は、ボクの写真でいっぱいだったと警察の人は言ってた。ストーカー? ってやつだって。そんなの、知ってたらもっとちゃんと…」
 涙はとめどなく溢れては落ちる。
 砂月の指が、海羽の頬に触れて。涙を拭っても、追いつかない。
「…いいよ、キミの手がびしょ濡れになるから」
「んなの、拭けば済むことだしどうせ乾くし、…っ」
 嫌がるかもしれない。そう思っても、衝動は止められない。
 砂月は、海羽を抱き寄せた。
 できる限り優しく、でも、強く。
 海羽は、『服が汚れるよ』と言いながら少しだけ抵抗したが、砂月の『いいんだよ』の一言で、結局おとなしくなった。
 震えが大きくなった気がしたのは、彼女が堪えるのをやめたからだろう。
「…あの日。家の戸締りをしたの、ボクだったんだ。全部見たつもりだった。でも、一か所だけ、鍵のかかりが甘かった窓があって。そこから侵入されたって聞いた。ボクがちゃんと鍵をかけてれば…しっかり確認してれば、あんなことにはならなかったんだ。ボクが、…!」
     みんなを殺したのは、ボクなんだ    
 悲痛な叫びが、砂月の胸に吸い込まれる。
 ぎゅ、と抱きしめられて。
 海羽も、縋るように砂月にしがみついた。
「夏は、嫌い。何もかも失ったあの時を思い出す…から」
「そうか」
「暑いと、また火がボクの大切なものを盗りに来たのかと思う」
「…もう、来ないよ」
「ボクだけ残して、みんな燃やしちゃうんだ」
「そんなことはない」
「燃やすなら、ボクだけでいいのに」
「…それもダメだ」
 海羽を抱く腕が強くなる。苦しいほどに。
「…みんな、そう言うんだ。ボクはもう、生きていたくないって言ってるのに。キミもなの」
「多数決だな。お前は、生きていればいい」
「…殺したのは、ボクなのに」
「それは違う」
「違わないよ」
「違う。…これ以上、それ言うな」
 低く、言われて。
 海羽は、落ち着くためにか、大きく息を吸って吐いた。
 砂月の掌が、海羽の背をなでる。
「…最初、怖いのかと思ったけれど。キミも優しいんだね」
「何言ってんだ」
「四ノ宮は優しいって、事実を言っているだけ」
 そう、言いながら。海羽は、砂月にしがみついていた手をほどいて。離れたい、という意思表示を見せた。
「キミのおかげで、なんだかすっきりした。失って悲しくて毎年泣くけれど、いつも一人だったから。でも、押し付けてごめん」
 顔洗ってくるね、と。
 砂月の抱擁がとかれてから、海羽は寝台を下りた。
 背を、見送って。
 砂月は、自分の両手を見つめた。
 温度を失って寂しい、そう思いながら。
 吐息して。
 眼鏡に、手を伸ばした。




 顔を洗った海羽が戻ると。
 立っている人影。砂月は眼鏡をかけていた。
「…あの、早乙女さん」
 口調が戻っている。
 そうか、と。海羽は、内心少しだけ落胆した。
 もう、砂月ではないのか…と。
「ごめんなさい」
 那月は、深く頭を下げた。ミルクティー色の髪が、ふわりと動く。
「僕は、というかあの、…さっちゃんがあなたに、ひどいことを」
 それを聞いて、海羽は驚いた。
 この症状を持っている人は、お互いの存在を知らない場合が多いと聞いたことがあるからだ。
 そう言えば、と思い至る。砂月のほうは、“那月が海羽を介抱した”ことを知っていた。
「まさか、記憶…共有なの?」
 頭を上げて、那月は首を横に振る。
「いつもは、入れ替わるとその間のことは覚えていません。今回は、さっちゃんが聞かせてくれたんです。あなたとさっちゃんの、お話しを」
「…そんなこともできるんだ。面白いね」
「面白い、でしょうか」
 解離性同一障害は、理解されにくい。“二重人格”だと人に知れて、“面白い”と返ってくればたいていはただの興味本位と珍獣扱いだ。
 まさか海羽がそんなことを、と思いつつ、多少なれどもショックを受けた那月に、
「キミ達は、きちんと共存しているんだね。二人で“四ノ宮那月”を形作ってる。どっちかが困らないように、大事なところはちゃんと教えあってるなんて。素敵な兄弟だ」
 それが海羽の解釈だとわかる、言葉を。
 那月の表情が、ぱっと明るくなる。
「…さっちゃんを、認めてくれるんですか?」
「認めるも何も。確かに存在する人を、否定なんかしない。キミが那月で彼が砂月、キミ達は四ノ宮兄弟。…違うの?」
 小首をかしげると、黒髪がさらっと揺れる。
「それから、ボク達の話を聞いてたなら、砂月がちゃんとボクに償いをくれたことを知っているでしょう? 傷を抉ってもくれたけれど、癒してもくれた。キミが頭下げる必要はない。罪を感じる必要もない。むしろ、ボクのほうが、キミ達にありがとうと言いたいよ」
「そんな」
「今年は、なんとか一日だけで済みそうだ。明日は、瞼の腫れを引かせることに専念する。明後日は学校行ける。…悲しみは、噛み殺すしかないと思ってた。ボクの罪は消えず、生かされることが罰なのだとも思ってた。でも、ちょっと、違う風に考えられそうな気がする。これは、キミ達のおかげだよ、四ノ宮」
 にこ、と笑う。
「あと、今日の話は全部、オフレコってやつでお願いできるかな」
「わかってます」
「うん。おじ貴と林檎と龍也は、もうとっくに知ってるからいいんだけど。他の人には、…というか、ボクから話したのはそもそも初めてなんだ」
 海羽は、歩みを進めて。那月のすぐ前に立つ。
「ごめんね。今日のキミは、災難だったね」
「えっ」
「通りすがりにボクを助けたせいで、重い話を聞かされた」
「そんなの、災難だなんてとんでもない」
 目の前の海羽は、笑ってはいるけれど。赤みを帯びた瞼は、もったりとしていて。
「腫れ、ひくといいんですが」
「ひくよ。一日あれば大丈夫」
 那月の手が、不意に伸びて。その掌が、海羽の両頬を包む。
「え」
「おまじないを、させてください」
 許可が出る前に。
 海羽の視界が那月で埋まり、気が付いたら両の瞼にキスを一つずつ。
「早く、元に戻りますように」
「…っ」
 言葉の後の、申し訳なさそうな笑顔を。海羽は、ほとんど見ていなかった。
 かぁっと顔を紅潮させ、それでも、
「あ、りが、とう」
 とは返して。
 けれど、赤みは耳まで達し、
「……あのね、四ノ宮」
 頬にはまだ、那月の掌。そこが熱いのは、どちらの温度の都合だろう。
「はい?」
「…ほんっと、勘弁して」
「でも、おまじないですから」
「いや、もう、問題はそこじゃなくてね。お察しの通りで…慣れてない、んだ」
 声が震えているのは、羞恥なのだろう。
 慣れてない、がどこにかかるのかと那月は記憶をたどり、あぁ、と呟いた。
 砂月と入れ替わる直前の会話だ。
「女の子には、いくらでもできるんだけど。でもされるのは苦手だし、相手が男ならなおのことで、慣れるとかの以前に、ほんっと触らないでって思うし」
「あ、ご、ごめんなさい」
 ひゅっと手を引っ込める。
 少し気まずい沈黙。
「…でもね、早乙女さん」
「ん?」
「僕は、あなたに、触れたいです」
「…は?」
 きょとんとした顔で、海羽は那月を見た。
「僕は、小っちゃくて可愛いものを見ると、ぎゅってせずにはいられなくて」
「…小っちゃくないよね、どう見ても」
「僕からしたら、小っちゃいですよ。それに、あなたは、可愛いです」
 せっかくおさまりかけていた紅潮が、また戻ってくる。海羽は、あからさまにうろたえていた。
「や、だからそれ、ボクには適用されない」
「されます。可愛いです」
「何言ってるの」
「早乙女さんは、可愛くて、素敵な人です!」
 真っ向から、大真面目な顔で言いきられて。
 その挙句、
「っ、ごめんなさいっ」
 と、先制謝罪で抱きしめられた。
「!!!」
 悲鳴は、音にならず。海羽は、ぐっと息をつめた。というか、呼吸どころではない。
「触られたくないって、あなたは言うけれど、僕はあなたに触れたい。…我慢してたんですけど、駄目ですね。もう、抑えられない。自分でもびっくりしてます」
 彼の戸惑いは確かに、吐息がわずか程度に震えていることからも察した。
 けれど、海羽のほうが余程ひどい状況で。相変わらず息もできず、ひたすら固まってしまっている。
「……すみません」
 さすがに、このままいるわけにはいかないと思い。謝罪とともに、那月は海羽を抱く腕を緩めた。少し離れると、海羽はぺたんとその場に座り込んでしまった。
 項垂れる、黒い髪がさらりと揺れて。
「早乙女さん」
 不安になった那月は、膝を折って海羽の様子を窺うが、
「…ごめん。もう、帰って」
 低く、押し殺したような声で言われてしまう。
 びく、と。那月が身をすくめたのがわかる。
 海羽は、
「えっ、と。…その。……キミがダメとか、そういうのじゃなくて。だから、キミが傷ついたりするのは、違うんだ」
 俯いたまま、深めの呼吸をして。
「好意は、嫌じゃないよ。それだけは、今、間違いないって確認済み」
「ほんと、ですか?」
「でも、“触れたい”って言われて、どうぞとは言えない。よく知らないキミに、そんなことされたくない。キミには、もしかしたら、大したことないのかもしれないけど、…ボクにはまだ、ハードルが高い」
 そう言って、少々ふらつきながらも立ち上がる。窓の戸を見た。
「…雨、まだ降ってるね。傘あげるよ」
 出入り口のドアへと向かう。
 離れていく、黒髪の背に。那月はつい手を伸ばし…かけて。
 その手を、下ろした。




 海羽が那月に渡した傘は上品なネイビーの男物で、けれど安物ではないのだというのは見てわかるようなもので。
 あげる、と言われて。那月は大いに戸惑ってたいたが、
「ほとんど新品だけど使ってないんだ、これ。傘が可哀想だから、予備用にでもしてよ」
 なんて微笑んで言われたら、受け取るしかなかった。
 那月が最後に見た海羽の笑顔は、綺麗だがずいぶんと温度の低い印象のものだった。
 送り出されて、目の前で閉じたドアは今度こそ鍵がかけられる。
 これは“拒絶”だろうか?
 けれど、彼女は『またね』と言った。
 …中途半端。
 だが、会いたくないと思われたとしても、学内で顔を合わせはするだろう。そんな、すれ違う程度でも“またね”なのだろうか。
「…もしかして、僕にじゃないのかな…?」
 ぽつりと、那月は呟いて。
 その思考はいけない、と。自身に言い聞かせて。
 踵を返した。
 




 去っていく靴音を、ドアの傍で聞き遂げて。海羽は溜息をつく。
 部屋に戻って、ベッドに腰掛けた。
 シャツの裾から、するりと手を入れて脇腹に触れる。
 …自分以外がコレに触れたのは、いつの誰以来なのだろう。
 いまだはっきりとわかる、違和感。
「見られちゃった、なぁ…」
 ぎゅ、と自身を両腕で抱きしめて、ベッドに倒れる。
 ずっと気にして、ずっと隠してきたもの。
「でっかい傷跡に、まだらの肌…なんて。それ見ても“カワイイ”とか、ネジとんでんじゃないの、あの子…」
 低く、悪態をつくものの。
 まだ体が記憶している、さっきまでの状況が蘇って。顔が熱くなるのがわかる。
「…そういや、悲鳴あげて気絶…まではいかなくなったなぁ…進歩進歩」
 苦笑する、それがいいのかどうかもわからないまま。
 思考はただ、那月の言葉を再生し続ける。
 交差して、砂月の言葉をも。
 どちらも、熱くて暖かくて。
「…やだな。結局ボクは、性別は捨てられないのか…」
 早くなる鼓動の理由は、うすうす気づいている。
 それは少し不快で、けれど不思議と心地よかった。
 <s>   </s>もう、こういうのはいらないのに。
 目を閉じて、口の中で呟いて。
 こんな状態じゃあ、泣くどころじゃないな…なんて、それはそれでありがたいのかどうなのか。


 静かな部屋に、聞こえるのは雨音と。
 少しうるさい、自身の鼓動。




 
2013.05.11 初アップ/2013.11.16 第一改訂