ピリリ、と。繰り返し聞こえる電子音で、意識が浮上する。
 あいた視界は、けれども暗く。
 レースカーテン越しに注ぐ、月光だけが室内を照らしていた。
「ん…」
 音の聞こえる方に手を伸ばす。かたい感触、学生鞄。その中、探って見つけたのはスマホだ。
 掴んで出すと、音が大きく聞こえた。
 画面、名前が出ていたが。それを良く見ずに、彼女は通話を開始した。
「…ぃ、さおとめ…」
 まだ、声が覚醒しきらない。だいぶ掠れたそれは、相手にきちんと名乗りを聞かせただろうか。
 回線越し、
    海羽?』
 聞こえた声に。
 彼女は、びくっと身を震わせた。
 一気に意識が現実に戻る。
「っ、翔…」
 思わず、体を起こす。
 ずき、と。頭が痛んだ。
『悪ぃ、こんな時間に』
 こんな、と言われて。海羽は時計を探した。目を凝らして見ると、文字盤は九時あたりを指している。
『もしかして、寝てたのか?』
「あ、…うん。みたい」
『ごめん、起こした?』
 久しぶりによく眠れた、と思うのだが。眠り方が悪かったせいか、まるで頭がすっきりしない。
「あー…ううん、いいよ。どうせ起きないと、だったし。課題、やんなきゃ」
 なんとなく、笑った声になって。
 向こうも、そうか、と。声が、少し明るくなる。
 そこから少し、間があいて。
『ん、っと。今日さ。お前、…泣いてたろ』
「…うん、ちょっと」
『なんか、あったのか? いやその、へこむようなことあったとかならさ、話聞くとか、俺でよければするし。お前、ルームメイトいないって言ってたから、ひとりきり…だよなと思って、その』
 歯切れの悪い言葉たち。それが、彼の気遣いだとわかるから、また涙が出そうになる。
 あったかいなぁ、と思いながら。
「けど、キミはルームメイトいるでしょ?」
『いや、今、外なんだ。散歩してた』
「…そうなの」
『だから、誰か盗み聞きとか、ないし』
 たぶん、なんてつけながら。
 そんな言葉を聞いて、海羽は。
 傍にあった、DVDを見やった。
 そして、
「ねぇ。電話じゃなんだから、会ってもいいかな?」
 その望みを発するのには、少し勇気が必要だった。
 間があいて。
 即答されないことに不安が生まれて、やっぱりいい、と言いだしそうになったのを、
『…会いたい』
 どこか抑え気味な声音で、それは電波に乗ってきた。
『海羽がいいなら、俺は会いたい』
 はっきりと、言い切られる。
 海羽の口元がほころんだ。
「うん、じゃあ、会おう。えっと、…」
 今どこ? ちょっと待たせるけどいい? まだ制服のままなんだ。
 取り付ける約束、口調はそれなりに上昇気味で。
 なるべく急ぐから、と。相手の了承を確認して、通話を終了する。
 ふぅ、と。一息ついて。
 薄明かりの中、手に取るのは例のDVD。
 あ、と思い立って。海羽はそれを持って寝台を下りると、パソコンの電源を入れた。
 モニタの光が、手元を照らす。
 ディスクトレーを開けて、DVDを入れて。
 自分が思った作業をして。
「えっ、と。シャワー浴びて、着替えて…」
 大急ぎで、身支度を整えた。





Episode.09 Re-birth(後編)





 学園の敷地は、無駄に広い。そして、自然も豊かだ。
 寮にほど近いところにある湖。そのほとりにあるガゼボは、生徒たちの間でも人気のスポットだった。
 今日のような月夜には、作詩に行き詰まったり作曲に行き詰まったりした生徒がいることもあるのだが、幸いにして無人のようだ。
 海羽が待ち合わせに指定したのはその場所だった。
 月の光を湖面が反射して、キラキラと幻想的な風景を見せている。
 先に来ていた翔は、その様を眺めながら、岸辺に立ってぼんやりとしていた。
 ルームメイトには、もう少し遅くなると伝えてある。誰に会うとか、そんなことはすべて伏せてはあるが。ただ、気分がいいから散歩しまくる、なんて理由が通っているかはわからない。
 翔がその場で立ち尽くしてから、どのぐらいの時間がたったのだろう。
 草を踏む足音が聞こえて。
 はっとしてそちらを見た。
 歩いてくる人影。
 月が照らす。
 オフホワイトのチュニックシャツ、七分丈のクロップドパンツ。足元は、サンダルで。
 その姿を見て、翔は少なからず驚いた。
「こんばんは」
 いつも下ろしている髪を、サイドだけ上げてクリップで止めている。
 学内では隠しがちだった顔を、きちんと見せて。
「海羽、お前…」
 学園の敷地内で、彼女が“彼女”とわかる格好をしていることは、極めて珍しい。
 肌の露出は相変わらず少ないが、それでもいつもよりは多くなっている。手首も足首も、彼女はほとんど見せたことがない。
 人目のない夜だから、なのか。それとも、一度は“女装”を見ている翔だからなのか。
「やぁ、綺麗だね」
 湖を見て、柔らかく笑む。
「知らなかったな、ここ、こんなにいい場所だったんだ」
 キラキラと、彼女の黒髪に光がはねる。
 海羽は、
「本当は、ボクからキミに電話をして、呼び出すんじゃなくてこっちから行って、それで…こうしなきゃいけないって思ったんだけど。ごめん、キミの気遣いに便乗して」
 そう言って。翔に向けて、深く頭を下げた。
「この間は、ごめんなさい」
 長くしなやかな黒髪が、背中から肩に零れる。
「ずっと、謝りたかった。キミは何も悪くないのに、ボクが勝手にいじけて、キミに不快な思いをさせてしまった」
 翔は、驚いた顔をして。けれど、ふぅ、と吐息して。
「別に、不快とかないから。顔上げろよ」
 口調は、優しくできた。確かに、もともと怒っていたりはしていない。
 海羽は、ゆっくりと顔を上げる。
 一歩。翔が近づいた。
「それに、会いたいっつったのは俺のほうだ。来てくれて嬉しい」
 はにかんだように笑う。
「なんか、こんな風に話すの、久しぶりな感じだ」
 それから、少しためらいがちに間を持って、
「あの時は…俺がなんか、地雷踏むようなこと言ったんだろ?」
 ずっと考えていた。何がいけなかったのかと。批判めいたことを言ったから、かとも思った。けれど、その件は、海羽はきちんと受け止めていたように見えたから、別件だろう。
「っ、違う! キミはホントに、なんにも」
「じゃあ、なにが引っ掛かってああなったんだ? 教えてくれよ。学園長には断られた。っつか、うまいこと誤魔化された。きっと、お前が嫌がることだから、とは思ったけど。でも、…知りたいんだ」
 まっすぐに、海羽を見つめて。
 海羽は、少しうろたえた様子だったが、
「…なにが、って言われて、コレって明言できるような理由って、ちょっと難しいんだ。ただ、ボクはあの時、キミが言っている通りだったら、ボクには“夢を見る”っていうのは無理なんだなって思って」
 諦めを、やつあたりに変えてしまった。海羽はそう言って、もう一度頭を下げた。
「けど、そこをどうにかできそうな、ことがあって」
 頭を上げた彼女は、苦笑いのようなものを浮かべた。
「どうにか、って?」
 海羽は、ふふ、と笑った。
「結局、全部他力本願。ボクの力なんて何一つない。キミを困らせて、おじ貴も困らせて。それで出してきたおじ貴のジョーカーも、“誰かの言葉”だった。なんかもう、そこまでされても身動き取れないとか、そんな自分が嫌で嫌で。叫びたいぐらい嫌で」
 その場に、すとんとしゃがみ込む。
 地面に髪の先が付くこともお構いなしだ。
「海羽、髪」
「いいんだ、そんなのは。いっそ、この場で切ってしまいたい」
「おいおい…」
「なんていうの、衝動? こんな自分をどうにかしたいっていう。ぶっ壊して、めちゃくちゃにして、再構築したい」
「そんなに?」
「そんなに。まー、怒られたしね。“来栖を振り回すな”って」
 振り回された、とは思っていない翔だから。そりゃ怒られ損だ、なんて肩を落とすのだが。
 海羽は、振り回したと自覚しているから、キミは優しいね、と微笑んだ。
「これ、おじ貴の“ジョーカー”」
 言いながら、海羽はポケットからスマホを取り出した。
 ひょいひょいと操作をして、それを翔に見せた。
「…動画? 見てもいいのか」
「うん。他の人には何のことはない、ただの“過去の一片”さ」
 小さな画面、再生が始まる。
 翔は、海羽のスマホを手に取った。

 ひょこりと映ったのは、小さな子供。
 音声も聞こえる。
 『よみまーす!』
 元気のいい声が聞こえた。
 『ボクのゆめ! にねんいちくみ、さおとめりくっ』
 画面に映る少年は、手にしている、おそらくは原稿用紙に書いた内容を、生き生きと読み上げる。
 『ボクのゆめは、アイドルになることです!』
 明るく、力強い声が、その夢を声にする。
 歌の上手な姉が自身の声が嫌いだからと言って歌わないから、姉の代わりに自分が歌ってあげたい。
 姉の作る曲はとてもとても素敵だから、世界中のみんなに聞いてもらいたい。
 だから、二人で。アイドルになって、たくさんテレビに出て。
 姉の音楽が自分に勇気と元気をくれるから、それを自分の歌でみんなに伝えたい。
     そんな内容だった。

「海羽、これは」
「ボクの弟。まさか、おじ貴がこんなもの持ってるなんて思わなくて」
 ホームビデオなのだろう。画像は決して美麗ではなく、音声にもノイズが入る。けれど、だからこその温かさがあって。
「そもそも、ボクが音楽を始めたのは、弟のためで」
「アイドルになりたいって言うから?」
「ふふ、それは違う。なんか、そこを突き詰めると卵が先か〜みたいな話になっちゃうんだけどね」

 初めて触れた楽器は、おじが買ってくれた電子ピアノ。
 当時生まれたばかりの弟をあやすために、童謡を覚えた。
 そのうち、曲に合わせて弟が躍ったり歌ったりするようになり。
 この子が喜ぶならと、即興で曲を作るようになった。
 二人で歌う曲を作りもした。
 気が付いたら、弟はアイドルになると言いだして。
 一緒に行こう、と願うまでに至った。

「大事な約束、だったはずなんだ」
 呟いた海羽に、翔はスマホを返す。
 動画を止めると、また周囲に静けさが戻った。
「弟ね、キミと同い年」
 ポケットにスマホをしまって。海羽は、その低い視点から湖面を見渡す。
「なんで、あえて今年の入学を勧められたのか、ボクはわからなかった。もう、二十歳も過ぎたってのに。おじ貴は、どうしても今年だって言って。こんなとんでもない倍率の学校に、なんで今更…それも、ボクは別にそこまでして音楽をしたかったわけじゃなかったから。デビューとか、させたいんならおじ貴が好きにしたらいいって。作れって言われれば作るし。そんな気持ちで受験して、合格通知来たときはホント、不正を疑った」
 実際、海羽は筆記の試験はまったく自信がなかった。専門的に音楽を学んだことなどないし、何より彼女の学歴は、義務教育の途中で止まってしまっているのだから。
「中学校もまともに出てないボクに、この学校で学べる資格はない。ボクのせいで、誰かが挫折を味わったかなって思うと、申し訳なくて。でも、それでもボクは、…未来に夢を描いてそれを叶える努力をしようって、思えなかった」
 膝に、額をうずめる。
「キミが、“夢は好きの延長上にある”って言った。じゃあ、ボクは音楽に関して夢を見るのは違うんだと思った。でも、ならどうして奏で続けているのかって…キミは、ボクは音楽が好きだと教えてくれた。けど、ボクにとって音楽は、苦痛でしかなくなりつつあった。やめられない、好きじゃない、…この答えを知るためには、ボクはひとつ、開けなきゃならない扉があったんだ」
「扉?」
「記憶の扉。ボクの過去は、どうやらいろいろありすぎて。ところどころに、扉がある。開けちゃいけないのか、開けない方がいいのか、…誰かの都合で閉ざされているものなのか。そんなことも、ボクにはわからない。でも、おじ貴がくれたこの“切り札”は、その中の一つをこじ開けた。ボクに必要なものだと、おじ貴は言った。弟の言葉…あの子が描いた夢。ボクはそれを、思い出さなきゃいけなかったんだ」
 二人の約束。覚えていなかったことへの、罪悪感。
 そして。
「もう、この世にいないあの子のためにも」
 すっ、と。海羽は立ち上がった。
 吹き抜ける風に、黒い髪が揺れる。
「いない、って」
「死んじゃったから」
 ぽつ、と。小さな回答。
「や、えっと、…悪ィ…」
「いいよ。事実をどう誤魔化しても、仕方のないことだもん」
 間があいて。
「…この動画が入ってたDVD、ね。今日もらったんだけど。“Re-birth”って書いてあった」
「リ…?」
「生まれ変わるとか、復活とか。そんなような意味合いだよ」
 海羽の目が、翔を見る。
 翔も、彼女を見つめ返した。少しだけ、潤んでいるのがわかる。
「いろんなものを諦めてきた。前を向こうって気にもなれなかった。下を向いて、いっそ目を閉じて。真っ暗な中で、呼吸をさせられてるって思ってた。生きている、それだけでいいならそれしかしないって。ボクは罪人だ。裁かれないのは、裁くと都合が悪い人がいるからだと知ってる。だから、…もう何も望まず、願わず、……ただ息をしていればいいと思ってた」
 過去形で語られるのは、彼女の中にそんな自分への決別の意思があるからだろう。
「でも、そうじゃないって、ようやっと思える。あの子が十五歳になって。あの子が憧れたアイドルの世界へ、…二人で挑めなかったのは残念だけれど」
 海羽は苦笑する。
 あの動画の中の弟の姿を見るまで、ほんとうに忘れていた。
 
「キミの電話、嬉しかった。心配してくれたんだって、嬉しかった。嫌われたなって思ってたし」
「だから。嫌わねェって言っただろうが」
「…うん。誠実なキミの、その想いがなにより嬉しい。本当、この学校に来てよかった。最近、つくづく思うよ」
 言いながら。海羽は、きちんと翔のほうを向いた。
「ひとつ、頼まれてくれないかな」
「改めて、なんだよ」
「重たいかもしれないけど。キミにお願いできれば、一番いいかなって思って。証人になってほしいんだ」
「証人?」
「うん。…今からボクのリスタート」
 向き合って。
「いい月だし。こんな綺麗な場所で、キミの前でなら。もう絶対、忘れないだろうから」
 海羽は、右手を自分の胸元に当て、左手を軽く掲げた。
「いい?」
 翔は、微笑んで。
「あぁ。いいぜ」
 うん、と。海羽は頷いた。
 一拍、沈黙があって。
「足掻ける限り、足掻いてみようと思うんだ」
 そう、言ってから。
 海羽は、目を閉じた。
    宣誓」
 厳かに、声が響く。
 海羽の左手。その、前に向けられた掌に、翔の右掌が重なる。
 彼のその行動は、海羽の予想の中にはなかった。けれど、彼女はそのまま言葉を続ける。
「わたくし、早乙女海羽は、自分の持てるすべてを音楽の神に捧ぐことをここに誓う。目指す場所は、輝くステージ。ボクの曲で、世界中の人を幸せにすること」
 二人の脳内に、さっきの動画がリプレイされる。
 海羽の弟が、生き生きと語った“夢”。
 音楽で、誰かを勇気づけ、幸せにしたい…その、願い。
「神が愛を求めるなら、魂の限り旋律に注ごう。音楽とともに生き、祈り、奏で、そして幾多の夢を…想いを、響かせ続ける。やめたりしない。どんなに辛くても、絶対に逃げない。…あの子が見た夢を、ボクが引き継いでも…いいよね」
 瞼を上げて。問いかけを、“証人”に。
「むしろ、そうするべき、だろうな。確かに聞いたぜ、海羽の覚悟」
 重なった二人の手が、指が。交互に、組み合ったのは、どちらもほとんど無意識だった。
 ぎゅ、と。固く繋がれる。
「ずっと、死にたいと思ってた。でも…なんかもう、みんなしてボクを死なせてくれないから」
「はぁ? んなもん、あったりまえだろうが」
「当たり前、なの?」
「あのな。そんな簡単に、死にたいとか言うんじゃねぇ」
 つなぐ手、翔の力が強くなる。
「痛いよ」
「許さないからな、俺が」
「…はい」
 素直な返事の後。
 海羽は、翔の肩に額を置いた。
「…ごめん。なんか最近、泣くこと多くなった」
 声が、震える。
 翔は、あいている左手を海羽の背に回し、
「泣けるときに泣いとけよ。…俺の前で強がってもしょうがないだろ」
「年上のプライドというものがあってだね」
「そんなこと言ってたら、今はまわりが年下ばっかなんだから泣けないぞ。我慢のしすぎは体にも心にもよくない」
「…ありがとう。やっぱ、翔がいてよかった」
 泣き声の中に、確かな安堵と、深い感謝をくみ取って。翔は、照れ隠しに「バーカ」と小さく言った。
「つか、やっと俺の名前呼んだな」
「ぇ?」
「電話に出た時に、とっさ的に“翔”って言ったけど。その後は、ずっと“キミ”だった。些細なことだけど、徹底されるとグサッとくる」
「……ごめん、無意識」
「以後、気を付けるように」
「はぁい」
 返事をして、またゴメンと呟いた後。小さく、海羽は。
 『大好き』
 そう、言った。涙のせいで、声はほとんど出ていなかった。掠れた音はほとんど吐息だったが、この距離なら、聞き逃すことはなかった。
 不意打ち、という程でもないけれど。さすがにここまでコンボが決まると、さすがの翔も空を仰がずにはおれない。
 頬が熱いとか、心拍が上がりすぎて心臓が痛いとか。なんとか落ち着けながら、
「っつか、海羽、ほんとに二十一か? なんか、もっと幼い感じがする」
 ここはもう、せめて笑ってどうにかできないかと、茶化すようなことを言って。
「二十二だよ」
 海羽の切り返しに、本気で驚いた。
「っえ?! いつから?!」
「…六月の、末に。誕生日…」
「過ぎてるじゃんか! 言えよ!」
「……言えないよ」
 気まずかった期間中のことだから、そうかもとは思った。
 けれど、その後に続いた海羽の言葉に、翔の体温と心拍がすっと落ち着いたのは事実だ。
「命日、だし」
 ぽつ、と。明かされた真実。
「えっ」
「ボクの誕生日に、家族が死んだんだ。だから、あの日以来、お祝いなんてしてない。日にちずらして、おじ貴がプレゼントくれたりするけど。おめでとうは…日にちずらしても、なんか違うから」
「家族って…弟だけじゃないのか」
「……」
 海羽は黙って。そして、
「ボクさ、いろいろ面倒な人生送ってきちゃってるんだよね。覚えてるって言うか、知ってる分だけでも全部話すと、夜が明けるからさ。課題がなくて、翔がお泊まりしてもいいときに、ね」
「お、と、まりって」
 うろたえた声を、翔がこぼした次の瞬間。くっ、と海羽が笑った。
「翔、手の汗すごい」
 指摘され、つないでいた手を慌てて離す。
「っ、うるさいっ! お前がヘンなこと言うからだろうが!」
 ぬくもりと、つながっているという安堵感が消える。一瞬、後悔。
 海羽も掌を見つめて、どこか寂しそうな目をした。
「翔がフカヨミするからでしょ。ボクは単純に、夜通し喋っていいようにってことで“お泊まり”って言っただけさ」
「…海羽。絶対お前、俺を“男”だと思ってないだろ」
 また、海羽がくくっと笑う。
「それ、ボクの答えがどうでも、翔は自爆だと思うんだけど」
「…男嫌いの海羽が、こんだけ俺には許してるってのは、…俺を“男”だと思ってないからだろ。ちゃんとわかってるからいいよ」
 どこかすねた口調の言葉を聞いて、海羽は小さく吐息した。
「そうでもないんだよ」
「へ」
「…まぁ、確かに。他の人よりは、多少余裕はあるけど。今、翔は見えないからわからないだろうけど、…緊張はしてるし、赤くなってもいるし、心臓の音とか聞かれたら悲鳴あげそう」
「うそ」
「ボクは嘘つきだけど、こんなすぐばれちゃう嘘はつかない。っていうか、動かないでね。絶対見られたくないから」
「いや、むしろ見たい」
「却下。こんな状態で、万が一にも目線が合ったら、キスしたいって思っちゃう」
「誰が?!」
「ボクが!」
 しん、と。二人とも黙って、周囲も静まる。
 風が抜けていく音が聞こえる。
「…した、いの?」
 翔の、愕然としたような、やや震える問いかけ。
 そんな短い疑問符を投げるだけでも精一杯なほど、彼の心拍は上がっている。
 そのまま、また沈黙が降りて。
 すす、と。海羽が、顔を伏せたままで翔から離れた。
「み、海羽?」
 すすすすす。後退りしながら、髪を止めているクリップを外した。
 ばらっ、と。上げていた髪が降りて、彼女の顔を覆い隠す。
「あ。お前、それズルい」
「ズルくないッ」
 某ホラー映画のキャラクターのような外見になりつつ。そのまま、海羽はくるりと踵を返した。
「……ごめん。課題あるから帰る。ほんっとごめん。後半部分、全部忘れて!」
「っ、こら、おいっ」
 そのまま駆け出そうとした海羽、だったが。
 瞬発力は翔のほうが圧倒的で、一メートルもなかった間隔はすぐに埋められてしまって。
 翔の手が、海羽の腕を掴んでしまう。
「引き留めるバカがあるかぁ!」
「引き留めたかったから引き留めたんだ、バカとか言うな!」
 掴まれている腕を振り払おうとするが、そこは男女差の都合なのか、なかなかほどけなくて。
 掴んでいる側も離したくないから、つい力を込める。
「海羽!」
 少し強く名前を呼ぶと、彼女はびくりと身を震わせて。仕方無げに、抵抗をやめた。
 けれど、相変わらず顔を下向けて、そむけて。髪が邪魔をして、表情はわからない。
「…普通、ああいう流れになったら、引き留めないでしょ」
「だから。引き留めたかったって言ってるだろ」
「生意気なんじゃないの、十六歳」
「往生際が悪いんだよ、二十二歳」
 言い合いの次元がどんどん低くなっていく。
 二人、同時に溜息をついた。
「…ヘンなこと言ったのは、謝るから」
「別に、謝らなくてもいいけど。つか、撤回してほしい」
「は?」
「…“忘れて”を、撤回してほしい」
「え」
 一瞬だけ、海羽は翔を見た。彼の真剣な表情に、ひるんだように半歩下がる。
「て、っかいは、できない」
「なんで」
「なんっ、て。そんなの、そもそも勢いだったって言うか…」
「本心じゃない?」
「…雰囲気にのまれての衝動的行動で、翔を退学にはできない」
 “退学”
 その単語に、翔もびくりと身をすくませる。
「たとえ、その行動に感情が…恋愛情がなくても。第三者の目が、学園長の目がどう見たかで処分が決まる。本当に、ごめん。振り回し過ぎだよ、ボクは」
「海羽…」
「おじ貴は、ボクが翔を気に入ってることを知ってる。だから、釘を刺してきた。“来栖を振り回すな、節度を守れ”、そんなのわかってる。ボク自身もデビューを目指していくって決めた以上、ちゃんと自制していかなきゃならない。年長者だし」
 翔の手が、海羽の腕を放す。
 海羽は、掴まれたところを軽くさすりながら、
「正直、今も気が気じゃない。いつ携帯が鳴って、学園長から呼び出しが来るかって。ボクだけが処分を受けるならいいけど」
「お前なぁ。そういうのは、状況どうあれ連帯責任だろうが」
「ボクの勝手な自己満足で、誰かの夢を壊すとか、あっちゃいけない」
「自己満足じゃねぇ。…さっきの流れで、俺とお前が…キスしたとしても。それは、俺も、したいと思ったからだから」

 海羽の手から、持っていたクリップが落ちた。地面で跳ねたそれは、二転して少し離れたところに転がった。
 目を見開いた海羽は、翔を見て。その瞳に、明らかな動揺を知った翔は、なんで? と思った。
 何に、海羽は驚いているのだろう。
「ち、違う」
 震える声で、海羽は言った。
「それは、違う。そんなの、そんなのは駄目」
「駄目って。何が?」
 様子が変わった。そう見えた。
 海羽は、低く呻いて。両手で、頭を抱え込んだ。
「お、おい、海羽?」
 地面に膝をつき、頭を抱えたまま。髪が降りているから、表情が見えない。
「どうしたんだよ、海羽!」
 苦しんでいる、けれど、突然のそれに、理由はわからない。
 持病があるなんて、聞いたことはない。けれど、もしかしたら。
 海羽は、なんのかんので授業を休みがちだ。そう言えば、運動に関する授業は全部いなかったかもしれない。
 どこか悪いのか。
 どうしたらいいのか。
「海羽っ」
 彼女の肩を掴んで、呼びかけた。
 その直後、彼女は自立する力を失って。ぐらりと、横に傾いた。
「海羽!」
 気を失ってしまったらしい彼女を、翔は自身の腕で支える。
 細いとは思っていた。けれど、一言で言うならば、“軽い”と思った。
 体格差のほとんどない翔でも、そう苦することなく抱えられそうなほど。
 顔色が、やたらと青白く見えるのは、月光のせいなのだろうか。
 それとも。
「…作り物みたいだ」
 つい、呟いて。
 背後に気配を感じたのは、すぐ後だった。
 ドキリとして、振り向く。
 しゃがんでいるから、余計に大きく感じたその存在は、むぅ、と苦く唸った。

「学園長」
 体長二メートル。そんな巨漢は、そうはいない。
 月光を背に。立っていたのは、シャイニング早乙女。
「あの、海羽が」
「…許容オーバーだな」
 普通の口調で話す、その声音は仕方無げで。
 早乙女は、翔が支えている海羽の体をひょいと抱え上げると、
「ミウが迷惑をかけたな。お前はこのまま、寮に帰りなさい」
「病気、なんですか?」
「…いや、そうじゃない。だが、そうとも言える」
「は?」
「メンタルの問題だ。まぁ、いずれ知るべきとなれば、ちゃんと教える。だが今は、…忠告だけだ。“恋愛は禁止”、これは絶対守ってもらう。この学園に在籍し、いずれスターダムへと願うならな。それは、ミウとて例外ではない。特に、お前達生徒との恋愛は、どうあっても認めん」
 いつになく、厳しい声だった。
 ぎく、と。翔の背に震えが走る。
「ミウと交わしていいのは、音楽だけだ。感情は…恋愛情は許さん」
「それは、保護者として、ですか?」
 問い返した翔の口調が、わずかながらにも反抗の色を見せていたから。
 早乙女は、ぴく、と片眉を上げ、
「…この子には、まだ早い」
 そう言って。そのまま、歩き去ってしまった。



 なにが、どうなったのか。
 その場に残された翔は、ただ呆然として。
 ふと目に入った、落ちたままの海羽のクリップを拾った。
「なんなんだよ、ほんと…海羽、お前一体、何をどうしたい? 俺は、お前のために何ができる…?」

 どんなことなら、彼女のためになるのだろう。
 今、この胸にある想いを、どんな形にすれば…

 翔は溜息をついて。
 月を見上げた。
 





2013.05.11 初アップ/2013.11.20 第一改訂