カチカチカチ、と。
 規則正しい、乾いた音が聞こえた。
 時を刻む音だ。
 静かに、エアコンの音。
 それ以外は聞こえない。
 カーテンのひかれた窓。
 部屋の照明は、一番小さなものが付いている。
 ズキ、と。頭が痛んだ。
「……あぁ、そうか…」
 ややかすれた声で呟いて。
 彼女は、だるい腕を動かして額を抑えた。
 ベッドの上。寝かされている自分。
 知っている天井。





Episode.10 『月下に見るユメ』





 時計が示す時刻は、深夜零時を回ったところだった。
 メゾネットタイプの居住空間、二階にある寝室から出る。
 階段を下りてリビングへ行くが、誰も居はしなかった。
 テーブルの上に、自分のスマホとキーケースを見つける。ポケットに入れていた物だ。
 その傍に、メモが一枚あった。
 “痛みが続くようなら、明日は欠席しなさい”
 少し個性的な文字。誰のものなのかは、すぐわかる。
 あの時、気を失ってしまった自分。ここにいる、つまりはこの文字の主が回収してくれたということだ。
「こっちに連れてきたんなら、居てくれたっていいじゃない…」
 八つ当たりのような文句を呟いて。
 彼女は、スマホを手に取ると、一度は点けた照明を消して、大窓の遮光カーテンをあけた。
 月光が降り注ぐ。
 窓の近くにあるグランドピアノ、その椅子に腰かける。
 完全防音の部屋だから、こんな時間に弾いても苦情などは来ない。それに、今はこの部屋の隣も上下も空き室のはずだ。
 鍵盤の蓋を開けて、けれどすぐには弾かずに。
 彼女は、スマホの画面を見つめた。
 着信を告げるLEDは、青色に光っている。
 メール有り。
 ロックを解除して、ちょいちょいと操作をする。
 メールボックス、未読一件。
 来栖翔、となっていた。
「翔…」
 着信時刻は、まだ日付が変わる前。
 ドキン、と。心臓が大きく打つ。
 開いてみると、内容としては“手伝えそうなことがあったら言え”と“課題がんばれ”と“ヘアクリップは俺が預かってるから”の三点。
 簡潔にまとめられた文面は、相手の感情を窺わせない。
 それが、余計に苦しくて。
 気を失ってからの自分がどうなったのか、翔はどこまで見ていたのか。
 いろいろ気になる、けれど。
 時刻を言い訳に、彼女は返信を断念して。スマホをソファに放り投げた。
「…あぁ、もう…!」
 苛立ちを吐き出し、鍵盤を叩く。
 堰を切ったようにあふれ出る音。
 彼女はその荒れた感情のままに、旋律を奏で続けた。


 どのくらいたった頃だろう。
 瞳からこぼれた涙にも構わず、ひたすら指を動かし続けて。
 不意に、揺らめいた影に気が付いた。
 窓から差し込む月光、影などなかったそれに、くっきりと黒く。
 ぎく、として。手を止めた彼女が、傍の大窓を見ると。
 ベランダの柵の上に、誰かが座っていることに気が付いた。
 …人間に見えた。
「っ、え」
 この部屋のベランダは、地上からは決して近くはない。飛び移れるような木も近くにはなく、上下隣が空き室な以上、隣人が迷い込んだとは考えにくいし、…そもそもベランダに迷い込むのはまぁないだろう。
 一瞬のうちに様々な、あり得る・あり得ないを混ぜた思考が巡っていく。
 本当なら、ここで窓を開けるというのは厳禁なのだろう。相手がどこの誰かもわからないのに。
 けれど彼女は、吸い寄せられるように窓辺に立ち、鍵を開けた。
 防音のサッシは、使っているガラスが特殊なせいか、少し重い。
 ガラリと音を立てて開いた窓。夜風が、ふわりと髪を撫でる。
「…そんなとこにいたら、危ないよ」
 第一声がそれというのもどうだろうか。彼女は自分でそう思いつつ、正面にいる人物を窺った。
     少年だ。十五・六歳といったところだろうか。
 黒い髪、緑の瞳。浅黒い肌。異国の血が混じったような、けれど整った顔立ち。
「慣れています」
 にこ、と微笑んで。少年は言った。
 日本語だが、片言の印象だった。
 彼は、座っていた柵からふわりと降りて、彼女の前に立った。
 そして、
「こんばんは、マイ・ディア。やっとちゃんと会えました」
 そう言った。
「え?」
 彼の言葉の意図がわからなくて。彼女は首を傾げる。
 そんな彼女に、彼は、
「…泣いていたのですか?」
 手を伸ばして、彼女の眼の端に着いている滴を指先で拭う。
 驚いて振り払おうとしたが、
「今夜は、音が荒れていましたね」
 そう言われて、気が殺がれる。
「防音、のはずだけど」
「聞こえなくても、感じましたよ」
「……変な子だね、キミ。事務所の子?」
「No」
「じゃあ、どうしてここに? この建物は、シャイニング事務所の社員寮だよ」
「場所がカンケイありますか? ワタシとアナタとの出会いに」
 微笑んで切り返されて。
 彼女は、きょとんとした後に、噴きだすように笑った。
 不審。でも、なんだか。
「なにそれ。どこの物語? まぁいいや、入りなよ」
 部屋の中に招き入れた。
 害がなさそう、というのもそうだが、なにやら妙な親近感があるなと思った。顔に見覚えがあるような、雰囲気に懐かしさがあるような。
 少年は、アリガトウ、と言って彼女の招きに応じた。


 少年をソファに座らせて、用意できる飲み物を一通り言うと、
「では、あたたかいグリーンティーを」
 と返された。
 異国風少年に緑茶か、なんて思いながらキッチンで支度をする彼女を、彼はどこか嬉しそうに眺めている。
「そうだ。キミ、名前は?」
「あぁ、自己紹介がまだでした。ワタシは、愛島セシルといいます」
「へぇ。やっぱり二世なの?」
「ニセイ?」
「あー、えーっと。お父さんかお母さんが日本人?」
 セシルの日本語は比較的流暢だが、やはりやや片言だ。わかりやすいように砕いて、彼女が言うと、彼は、
「母が日本人です」
 そう答えた。
 愛島、というのは母親の姓だと教えてくれた。
「ボクは早乙女海羽。よろしくね…って、言ってもいいのかな」
 トレーに、緑茶の入った湯呑と、お茶請けの羊羹を載せてソファのある方へと行く。
 ローテーブルに並べて、どうぞ、と勧めた。
「夜に甘いもの、嫌じゃなかったら食べて。あ、和菓子平気?」
「食べたことナイ」
「じゃあ、ちょっとだけかじってごらん。苦手な人も結構いるから」
 言いながら、海羽はセシルの隣に座り、彼の分の羊羹の端をヘラで切って、ちょいと刺すと、
「はい」
 そのまま彼の口に持って行った。
 その動作が、あまりに自然で。
 そして、セシルもまた、なんの躊躇もなくその羊羹を口に入れる。
「…どう? 一応、結構人気のお店のやつなんだけど」
「オイシーです」
「そう、よかった。じゃあ、はい」
 ヘラを皿に置いて、セシルのほうに向ける…までをやってから。
 あ、と。今更のように、気が付いた。
「…ごめん。なんか、ボク、恥ずかしいことしたね?」
 自分は恥ずかしいと思っていないが、相手はどうかわからない。
 セシルは、首を傾げて、
「そうですか? ワタシはウレシイです」
 と。
「平気ならいいけど…ごめんね、弟がいるもんだから、すぐお節介しちゃうんだ」
「ドンとコイです」
 にっこり、と。とてもいい笑顔で、彼は言った。
「いい子だね。さっきはヘンなんて言ってごめん。ボクも嬉しいや」
 彼女も微笑む、けれど。
 その瞳が潤んで、笑顔がふっと崩れて。
 俯いた彼女は、
「…ごめん。もう、ほんと、どうなっちゃったんだか…」
 両手で顔を覆う。
「ツライいこと、ありましたか?」
 隣から、セシルの優しい声。
「辛い…かな。わかんないや。でも、…」
 涙が止まらない。
 そんな彼女の肩にそっと腕を回して、セシルは彼女を抱き寄せる。
「ため込むのは、よくないことです。話せるなら話して。…気兼ねなくていい、ワタシたちはまだ、お互いをよく知らないから」
「気兼ねはないけど、よく知らない人にぶっちゃけるのはちょっと」
「ネコに話していると思えば」
 何故、ネコなのか。そこに突っ込もうと思ったが、やめにした。
 それよりも、海羽は自分の状況に驚いていた。セシルは明らかに男性だが、肩を抱き寄せられても全く嫌悪感がないのだ。それどころか、安堵さえ。そんなバカなことが、と自分に疑いをかけるが、何度確かめても事実は変わらない。
 セシルのなにがそうさせるのか。見当もつかなかった。
「…でっかいネコだね。ネコは、肩抱いたりしないよ」
「ンー。ミウはワガママですね」
「え、ボクが悪いの?」
 なにそれ、と。彼女は笑ったが、涙が止まったわけではなくて。
 セシルの独特の雰囲気は、ふわふわと温かく、どこか懐かしくさえある。
「では、オトウトの代わり、ではどうですか?」
 彼女は顔を上げる。
「凌空の、代わり?」
「リク、というのですね。どう呼ばれますか?」
 どう。
 問われて、彼女は首を傾げた。
 弟が、自分をどう呼んでいたのか思い出せない。
 あの動画の中では、“おねぇちゃん”と言っていた。けれど、普段自分に向かっては、違う呼び方をしていたような気がする。
 でも。
「…ごめん。そういうの、だめ…。凌空は凌空、キミはキミ。弟、だと思うのはいいけど、キミを凌空にしたくない」
 代わりと身代わりは違うから。
「マジメですね。ミウは」
「融通きかない頑固者、ってよく言われるよ。でも、…キミを凌空だと思うのは、二人に失礼だから。うん、新しい弟だと思うことにすればいいかな」
 今まで、誰に対してもそんなことを考えたりしなかったのに。
 兄貴分はいる。でも。弟分、という発想はなかった。クラスメイトに対しても。
「では、ソレで」
「…ありがと。けど、そうなるとますます泣いたり愚痴言ったりは違うかなぁ」
 そう言いながらも、やはり涙は止まらなくて。
 込み上げてきた感情に、ストップがかからない。
「情けないおねぇちゃんで、なんかごめん」
「ミウは謝ってばかりですね」
「…そう、かも」
 ごめんね、と。言った傍から謝って、彼女は少しだけセシルにもたれた。

 不安でたまらない。
 それが涙の理由だと彼女は言った。
 あのタイミングで気絶なんかして、原因どうあれ不快にさせただろう。
 挙句、ここに連れてきたのがおじならば、おじはあの場で彼女と彼とが話していたことを聞いていたかもしれない。
 その内容を知って、黙ってなどいるはずがないのだ。
 きっと何か言ったに違いない。
 何を言ったにしろ、彼との距離がまた開いてしまうのは間違いない。
 それが、彼に限ったことじゃなかったら。
「…翔に嫌われたくない。他のみんなとも、今は離れたくない。楽しいんだ、本当に。皆で音楽やって、いろんな世界を知るのが楽しいんだ。そう、思えるようになったのに」
 メールを見た限りでは、翔は彼女を嫌ったりはしていないように思える。
 けれど、社交辞令的フォローのようにも思えてしまうのだ。
「ミウは、そのショウという人が好きなんですね」
 セシルの言葉に、海羽は少し考えるように間をあけてから、
「恋愛ではないけどね」
 セシルは、そうかな、といった風に首を傾げたが、本人がそう言うならと疑問は黙っていることにする。
「学校の友達、なんてものが、こんなに愛おしくも大切だなんて知らなかった。嫌われたらどうしようとか、そんなことで泣く自分も想像してなかった」
 最近、とにかく泣いてばかりで。現実と自分のなかのギャップを思い知ったりもした。
 多くと関わらずに生きていたから、余計だったのかもしれない。
「…おじ貴が、『学校に行くのはお前のため』って言ったの、なんかすごくわかる。知らなきゃいけないことがたくさんあるんだ、ボクには。それは、この先どんな道でも、進んでいくのに必要なことばかり。ボクはこの、早乙女学園で過ごす一年間で、できる限り学んでいかなきゃいけない」
 それが、世間一般でなんと呼ばれるものかもわからない。“処世術”と括ってしまうのが一番適切だろうか。
 普通なら、義務教育課程で自然と知っていくものなのだろう。けれど、海羽はその経験を、ほとんどせずに…あるいは忘れて、ここにいる。
「ボクの“時計”が壊れた、あの夏の日から。もう、八年なのに」
 涙を拭って、彼女はセシルから離れた。立ち上がり、ピアノの前へと移動する。
 鍵盤を一つ、指で押した。
 ぽーん、と。音が部屋に響く。
「…音楽しかない。でも、音楽がある。考え方一つで、見えるものが大きく変わるんだって知った」
 ぽろりぽろりと、始まった演奏は“愛故に”。
「音楽なんかいらない、そんな風に思ってた。けど、ボクはもう、音楽以外の何も持ってない。これだけで、ボクの中にある旋律のすべてで、ここから先を生きていく。そう決めたから」
 時間帯を気にせずにピアノを弾くことができるこの部屋に感謝しつつ、音で世界を生み出していく。
 そんな彼女に、
「ミウはダイジョウブですよ。アナタには、ミューズの加護がある」
 セシルの声は、思っていたより近くで聞こえて。
 知らない間に彼は、海羽のすぐ背後に立っていた。
 そして、そのまま。背中から、彼女を抱きしめる。
「…気配ないとか。もしかして、本当に猫なの?」
 ぎく、とはしたものの。海羽は、抵抗もせずにそのまま鍵盤を操り続ける。
「そうかもしれません」
 ふふ、と。セシルは笑って。
「マイ・ディア。お願いがあります」
「お願い?」
「Yes。曲を作ってほしいのです」
 曲? と。疑問符を反芻して、海羽は手を止める。
「ワタシが歌う曲です。実は、ある人に捧げたくて」
「…ふーん」
 ぺち、と。セシルの腕を軽く叩くと、彼は彼女を解放して、隣に来た。
 片膝をついて、姿勢を低くして。椅子に座る海羽を見上げる。
「そんな大事な曲の作者にボクを選んでくれるなんて光栄だな。けど、誰にどんな曲を捧げたいの?」
 見下ろしたセシルは、そんな恭しいような姿もなんだかよく似合う。
「誰、かはまだ内緒です。けれど、捧げたいのは、アイの歌」
「…LOVEなの?」
「Yes」
 にっこり、と。屈託なく微笑む彼に、海羽は困った表情をした。
 彼女にとっては、結構な難題だ。
「これはまた、随分責任重大だな。自信ないにも程がある」
 しかも、そんな曲を、何故海羽に頼むのだろう。自身の記憶が正しければ、彼とは今夜が初対面のはずだ。
「ミウがいいのです。アナタなら、間違いない」
 絶対の自信を持って、セシルは言う。
「…キミ、ボクの音楽、ほとんど知らないでしょ? それとも、もしかして事務所じゃなくて学園の人なの?」
「No。どちらでもアリマセン」
「じゃあ、どうして…そもそも、どこでボクのこと知ったの?」
 学園でも事務所でもなく、海羽のことを知るのは易いことではない。
 少し厳しい眼差しで、海羽はセシルを見た。
 彼は、
「そんなことが気になりますか? ワタシは、ミウの音楽、わかります。知ってます。どこでとか、ぜんぶセツメイいりますか? それがわかれば、ミウはワタシに曲を作ってくれるのですか?」
 畳み掛ける疑問符の嵐。どこか不機嫌な、拗ねたような口調のそれに、海羽は小さく唸った。
 セシルの言う通りだ。そんなことを気にして、それが明らかになったからどうのというわけではない。
「…じゃあ、何か歌って。アカペラで。キミの音を教えて」
 彼女の要求に、セシルはイエスと答えて微笑んだ。立ち上がり、一歩下がって。
 すぅと息を吸って、空間に響いた歌は、海羽の知らない言語だった。
 異国の言葉で紡がれるその旋律は、朗々として。
 セシルの歌声が、海羽の聴覚を刺激して脳に届く。
 どくん、と。心臓が高鳴った。
 優しい歌声。少し甘く、どこか可憐な印象さえある。それは、彼の純粋な人柄を表しているのだろう。
 海羽は目を閉じた。
     心地いい。
 たゆたう水、そよぐ風。煌めく空。いろいろなイメージが重なっていく。
 そのどれもが“癒し”だと思った。
 
 セシルの歌は、旋律が簡素で。覚えやすいなと思った。言語からして、彼の父親の国のものなのだろう。
 ワンコーラス終わって、海羽が目を開けると。セシルと視線が合った。
 無言の中のアイコンタクト、それが読み取れて。
 海羽は、指を鍵盤に滑らせた。
 セシルの歌が続く。同じ旋律で。
 だから、海羽は伴奏をつける。即興のそれは、決して彼の歌唱の邪魔はせず。
 サビの部分から、…海羽の歌声も重なった。
 スキャットでつける、海羽のコーラスは。驚くほど、セシルの声とよく合った。
 歌、伴奏が終わって。繊細なエンドマークを、海羽はつけて。
 余韻が響いて、静かに消えて。
 一拍を置いてから、
「…魔法使いの称号は、キミにこそふさわしいよ」
 ぼそりと、海羽は呟いた。
「まさか、歌わされるなんて思わなかった」
 それが本音だった。
 初対面の相手を前に、しかも引き出される形で歌うなど。
 セシルは、海羽の衝撃を柔らかな笑顔で受け止めて、
「ワタシの国の歌。ミューズに捧げる歌です。アナタの中の、血が知っている」
「血…?」
「ミウ。アナタもミューズの加護を受けるヒトだから」
 言っている意味がよくはわからないが、頭ごなしに笑い飛ばす気にもならない。
 音楽の女神の加護。
「…それが本当なら、嬉しいことだけど」
「ウソではないですよ?」
「疑ってるわけじゃないよ」
 以前なら、しらっとしてスルーだったかもしれない。
 けれど、今は。音楽の神に仕えて生きると決めた今なら、こんな夢見がちな言葉も信じられたし、信じたいと思える。
 それに、
「キミが言うなら、そうなんでしょ」
 セシルの言葉だから、疑う余地がない。
 嘘を言ったりすると思えないし、彼の歌には確かに“音楽の神の加護”を感じたのだ。
「…わかった。キミのお願い、きいてあげるよ」
「本当ですか?」
「うん。でも、ボクはしばらく、学校の課題やらで忙しくて。キミは急ぐの?」
「急ぎません。でも、できれば冬が来るまでに」
「クリスマスに勝負賭けるとか? じゃあ、秋を目処にね。もしもキミのほうが都合があるなら、すぐに教えて」
 と、そこまで言ってから。
 海羽は、
「…ボク、ここに住んでるわけじゃないんだけど。どうしよう、定期的にここに来た方がいい? キミはどこに住んでるの?」
 そういえば、と。
 セシルは、
「ゼンブ、ヒミツです」
「っ、は?」
「ごめんなさい。言えるのは、名前だけなのです。けど、ワタシがミウに会いに来ますので、ミウはいつも通りにしていてください」
「…学生寮のほうに、キミ、来れる?」
「ダイジョウブです」
 微笑む彼の、言い切る言葉に。海羽は、少々の不安を覚えつつも、こくんと頷きを返した。
 そして、改めて見た彼に。異変を知った。
「…ねぇ、キミ。気のせいかな、うすぼんやり光って見えるんだけど」
 窓からの月光、部屋の照明。
 その光度があっても、キラキラと見えるものがある。
 セシルは、どこか寂しそうに、
「時間切れです」
 そう言った。
「…なにが? って、訊かない方がよさそうだね」
「コタエられませんから」
 名前しか言えない、と。セシルの言葉を思い出して、海羽は肩をすくめる。

 セシルが窓へ向かうから、海羽は先に行ってサッシを開ける。
 風が抜けて、冷房ではない涼しい空気が頬にあたる頬にあたる。
 ベランダに、セシルは出て。
 月光を背に、彼の光はますます強くなる。
「なんだか儚いね…消えちゃうの?」
「No。消えるわけじゃありません」
「そう。ファンタジックな夜をありがとう、魔法使いさん。次の夢で逢うときには、ラフぐらい聞かせられるようにしておくね」
 “夢”という表現をした海羽に、セシルはまた寂しげな顔をした。
「キミがどこの誰でも。どんな肩書きの人でも。“夢”なら、関係ないでしょ」
「ユメ、ですか?」
「…素敵なことがあったら、それを『夢のよう』って言うじゃない。今のボクはそんな気分」
 言って、海羽はにこっと笑んだ。
 それを見て、セシルはほっとしたような顔をして、
「そういうコトでしたか」
「そういうことだよ。だから、キミもそんな気持ちでいたらいいよ。ボクの肩書きも、アレコレいろいろ面倒だから。もっとも、キミがボクとの出会いとこの時間を“夢のよう”って思ってくれるかはわかんないけど」
 セシルの周囲の光が強くなっている。月光に溶ける輪郭。
「そんな心配はいりません、マイ・ディア」
 海羽の手を取って、指先にキスを落とす。
「…アナタに会いたかった。アナタと話がしたかった」
「ボクはそんな、望んでもらえるような存在じゃないけど」
「ヒクツはいけません。他にも、アナタを望んでいる人はたくさんいます。ミウ、アナタはもっと、ジブンを知って、ジブンを見直してあげなくては」
「…そう、だね」
 彼の言うことは、もっともなのかもしれない。
 そう思いながら、海羽はセシルを見た。
 光は一層強く、彼の姿を飲み込んでいく。
「……またね」
「曲、楽しみにしています」
 海羽の手を離したセシルは、ベランダの柵にふわりと飛び乗る。細いその場所に立って。そのまま、後ろに。
 強すぎる光に目が眩んだ海羽は、とっさに目を閉じて。ぎゅっとつむって開けた時にはもう、光もセシルもそこにはなく。
「っ、」
 慌てて柵に寄って、真下を見るが誰も居ない。
 左右も、上も。
「……やっぱ消えるんじゃないか。まいったな、まさか本物の魔法使い?」
 呟いて、溜息をつく。
 
 見上げる空に、傾き始めた月。
 指先に残る、彼の温度。
「…王子様みたいだったね」
 誰も居ない空間に、彼女の小さな笑みが散る。
 踵を返して、室内に戻る。
 窓を閉めて、ガラスにもたれて。床に落ちた、自分の影を見つめた。
 静かな部屋。
「また、背中押してもらっちゃった。これはもう、やるしかないねぇ」
 向き合った、影の自分に話しかけて。彼女は、ふふ、と笑う。

 泣いてる場合じゃないよ、と。
 影が囁いた。






2013.05.11 初アップ/2013.11.20 第一改訂