決意をした。
 足掻いてみせる、と。
 けれど、その出鼻をくじくように、体調が急降下した。
 一学期終了まで、あと数日を残すだけだ。
 学期最後にして最大の課題を提出しに行ったときに聞いた一言のせい、とは、思いたくはなかった。
 でも、その場でへたり込んだ彼女は、その日以降の登校を許されなかった。

 今はこの、病室と紙一重な白い部屋にいる。





Episode.11 insomnia





 学園から社員寮までは、学生寮よりは遠いが苦になるほどでもない。
 卒業後、晴れて事務所所属になれれば、ここに部屋をもらうことができる。
 外観は、寮というよりマンションの趣だ。
 建物を見上げて、トキヤは溜息をついた。
 事の発端は、三十分ほど前。
 放課後突入直後に鳴った、携帯へのメール。
 受信画面を見て、ドキリとした。この数日、学校に来ていない人物からのものだった。

 『時間があったら、社員寮まで来て』

 前置きも何もない、たったそれだけの文面。
 わかりました、と事務的に返して。手早く帰り支度をして、抜け出すように教室を出た。誰に見咎められて困るようなことではないはずなのに、誰にも行く先を知られてはいけないような気になっていた。
 そうしてやってきた社員寮。少し前に、部屋番号の入ったメールをもらった。
 エントランスを通って、そのメールに書かれた部屋番号のところまで向かう。
 誰にも会わなかった。
 ここに部屋を持っているのは、シャイニング事務所の関係者ばかりだから、皆仕事で忙しいのかもしれない。
「……ここか」
 一枚のドアの前。表札に、“SAOTOME”と出ている。
 念のため、呼び鈴を押してみた。
 数秒待って、もう一度。
 応答はない。
 直後、携帯が鳴った。
 相手を見て、すぐに出る。
「早乙女さん? 一ノ瀬です、今」
 ドアの前です、と。言うのが早いか、開いてるから、と言われるのが早いか。
 ドアのノブに手をかけると、確かに鍵はかかっていなかった。
 一歩入ると、ひんやりとした空気が肌に触れる。冷房が効いているのだ。
「どこ、ですか?」
 同じ屋内にいるのに、携帯でやり取りをするのがもどかしい。
 回線越しの彼女は、二階、と言った。
「二階?」
 部屋の造りがわからないが、玄関から見えるところのドアが開いている。とりあえず、そこに入ってみようと、トキヤは靴を脱いで足を進めた。

 LDKだ。グランドピアノが見える。大きな窓は、今はレースのカーテンがかかっていて、夏の日差しを柔らかく遮っている。
 ソファとローテーブルが見えて。
 そして。
 階段があった。
 メゾネットタイプという奴だ。
「階段、上がります。電話は切りますよ」
 うん、という返事を聞いて。通話を終了してから、トキヤは目の前の階段を上った。
 その先のドアも開け放たれている。
 ひょい、と覗き込むと、
「…やぁ」
 ベッドに腰掛けて、携帯を片手に持った彼女がいた。
 姿を見た瞬間、トキヤはぎくりとした。
「ちょっ、なんですかその顔!」
 彼女は、え? と首を傾げて。立ち上がろうとしたが、体重がうまく足に乗らなかったのか、そのまま前のめりに倒れ込んでしまった。
「早乙女さん!」
 慌てて駆け寄ったトキヤの腕が、床に転がりかけた彼女の体を寸でのところで救う。引き上げきるにはとっさ過ぎて力が足らず、トキヤは床に膝をついてから彼女の体を支えなおした。
 くにゃりと、彼女も床に座りこむ。それでも上体を支えきれないのか、トキヤに寄りかかるような形になった。
「…ゴメン。ちょっと、うまく力が入らなかった。座ってはいられるから、そのまま放していいよ」
「あ、は、はい」
 そぉっと、トキヤは彼女から離れる。背中を丸めて座る彼女は、ひどく小さく見えた。
 近くなった距離、改めて彼女を見る。目の下に、深い隈。ややこけた頬。顔色は、青いを通り越して白いばかりで、とてもまともな状態には見えなかった。
「呼んじゃってごめんね。用事、大丈夫?」
 声にも力がない。トキヤの知る海羽とは、別人のようにも思える。
「今日は、バイトもありませんから」
「…そう。よかった。でも、そんなに長い時間拘束する気ないから。ちょっと、話したいことがあっただけで。夏休み入っちゃうと、きっとバイトが忙しくなるだろうなと思って」
 顔を上げて、力なく笑う。
 紺色のカーディガンの下に薄紫のチェック柄のパジャマ。女性もののそれを着た彼女は、普段学校で見る男装姿とはずいぶんと違って見えた。華奢な印象。否、確かに華奢なのだ。装わない細い体は間違えようもなく女性のもので、儚ささえ感じた。
 彼女の背景、白い壁と。ベッドも、ファブリックは真っ白だ。
 どう見ても、病院の一室。そして彼女は、この場に似合いすぎる病人。
「ここは、あなたの部屋なのですか?」
 表札には早乙女とあった。けれど、この部屋はあまりにも簡素だ。女性の、という以前に普通に生活する部屋としては、そぐわないように思えた。
 海羽は、うん、と頷いた。
「変?」
「いえ、少し意外で…ひょっとして、学生寮の方もこんな感じですか?」
「うん。凝っても仕方ないかなって。一年しかいないんだし」
 そういうものだろうか、と。トキヤは考える。自分と音也の部屋はもとより、他の友人たちの部屋も、それぞれの個性の出たスペースに仕上げている。
 この白い、何もない部屋が。彼女の個性なのだろうか。
 何色にも染まる、けれど絶対に自分の色は見失わない、この白が。
 そんなことを思っていると、
「早乙女の家の部屋は、逆なんだよね」
「逆?」
「向こうは、家具の色とか黒なんだ」
 それもまた意外で、トキヤは少し怪訝そうな顔をした。
「なんて言うんだっけ…小悪魔系? なんか、黒と紫とって感じの。友達が揃えたんだけど。こっちの部屋は、姫系にしたいとかなんとか言ってたけど」
「それはまた…ゴシックな感じの好きな人なんでしょうね」
 海羽の口から“友達”という単語を、それも学外の人間を指しているのを聞いたのは初めてかもしれない。彼女の親しい人間は、学園の関係者にしかいないのかと思っていたぐらいだ。
「うん。選んでもらえるの嬉しいから、ボクはいいんだけどね」
 こっちはなかなか時間が合わなくて、と。苦笑するように笑ってから、
「…ほんとごめん、こんなとこに呼んだりして」
 その、彼女が言う“こんなとこ”には、複数の意味を感じた。“こんな殺風景な場所”…あるいは、“学生寮より遠いところ”。だが、詳細を問いただす必要などないだろう。トキヤは、そのどちらだったとしても、そもそも“こんなところ”などと思ってもいない。
「出られたらよかったんだけど。まだ、外に出るなって言われてて」
「当たり前です。そんな顔色でふらふら出歩かれては、心配どころじゃない」
 トキヤは、構いません、と首を横に振った。
「ですが、どうしてこんな状態なんです? 持病があるとか…?」
 それを疑われるのは、何人目だろう。
 海羽は、んー、と小さく唸りながら吐息した。
「精神的な問題だけどね。あえて病名らしいものを出すとすれば、…不眠、かな」
「不眠? 眠れない、ということですか」
「ん。ここ何年か、一日累計三時間が限界。一週間、一睡もしてないとか言うのも、珍しいことじゃない」
 今はそこまでじゃないけど、と言いながら。もう一度、彼女が立ち上がろうとするから、
「どうしたいのです?」
 トキヤが彼女の体に手を添える。
「あ、えっと。床に座って話すのもなと思って」
「なるほど。では、先程のようにベッドを椅子替わりにすればいいでしょう。掴まってください」
「はは…ごめんね」
「いいえ。こんなことでいちいち謝らなくていいです」
 彼に頼って、海羽はよろめきながらも立ち上がる。一歩半も下がれば、すぐにベッドだ。
 なんとか、その場所に戻って。はぁ、と吐息した彼女が、彼を見上げて自分の隣をポンと叩いた。ここに座れ、ということだろう。
 一瞬ためらって、けれど仕方なく。トキヤは、海羽が指定した場所に腰を下ろす。
 ここからでは、彼女の表情が良く見えない。俯きがちにいる彼女の、相変わらず束ねない長い髪が。さらりと零れて、隠してしまう。
「…今は、どのぐらい眠っていないのです?」
「え? あぁ、…休み始めた日から」
 一週間とまではいかないが、数日は経過している。
「一睡も?」
「うん。あの日にちょっと」
 あって、と。言葉尻が弱くなり、海羽は黙ってしまった。
 訊いてもいいのだろうか。トキヤがその“ちょっとあって”の部分を問おうかどうしようか迷って。
 やがて、その台詞は聞こえた。

「降格、決まっちゃった」

 ごく小さく、震えた声音で。
 一瞬、彼女が何を言っているのかトキヤにはわからなかった。
「…えっ?」
 聞いたことが、信じ難い。そんな問い返しに、海羽は深く吐息して、
「Aクラスへの降格。二学期から」
 課題を提出に行ったとき。それだけは決定だと、担任に言われた。
 聞いた瞬間へたり込んだ、そんな自分こそが信じられなかった。
 退学になってもいい、なんて半端な気構えでそれまでいたくせに。
 前日の頭痛はもう引きずっていないはずだったのに、視界が暗転しかかって。
 担任に帰れと言われて、その後すぐにおじが来て。病院に連れて行かれた。
 その後はずっと、この部屋にいた。
 降格、の事実を…まず、この彼にどう話そうかと考えて。

「降、格って」
 トキヤは、思わず彼女の両肩を掴んだ。折れてしまうのではないかという程に細く華奢な肩だった。けれど、手加減ができるほど冷静でもいられない。掴んで、グイと彼女を自分の方に向ける。
「そんな、何故?!」
 がくんと揺さぶると、彼女は力なく顔を上げ、
「評価点不足だよ」
 そう言った。
 トキヤの愕然とした目が、海羽を見る。
 評価点不足、そんなはずは。
 一学期の間、事あるごとに二人は一緒にやってきた。トキヤの成績は、最初こそ躓いたものの、その後は順調だった。はっきり言って快進撃だ。そのほとんどが彼女のおかげで、そして当然、彼女の方も好成績で走っているものだと思っていた。
 確かに彼女は、楽譜を読んだり書いたりするという基礎的な部分で点を取れない。だから、その分実技・実践の点を稼いでフォローしているはずだ。
「…授業時間数とかもそうなんだけどね。課題割増しで埋めるのにも限界があって」
 ちょっと痛いよ、と。海羽は、肩を掴むトキヤの腕を退かせる。内側の手をベッドの上について、自分の体を支えた彼女は、けれどそのままぽふりと体を横たえてしまった。黒い髪が、白いシーツに散らばる。
「評価点不足って、そんなはずないでしょう? 本当は何なんです?」
「嘘じゃないよ。点が足りなくて降格、これ本当」
 顔にかかる髪を退かすふりをして、彼女の手は更に表情を隠す。横になったのは、トキヤと視線を合わせないためだと悟った。
 何かを隠している。
 トキヤは、自分の中の苛立ちを自覚した。苛立つに決まっている、わざわざ呼んでおきながら隠すなら、電話で済ませてしまえばいいのに。
「…早乙女さん、きちんと話してください。一緒にやってきた身としては、ただ“評価点不足”だけでは納得がいきません」
 嫌がられるかもしれない。そう思いながら、トキヤはベッドに乗りかかり、海羽の頭の両脇に手をついた。覆いかぶさるようになった彼の体が、彼女に影を落とす。
「それとも、いっそこのまま退学になるようなことでもしてしまいましょうか」
 耳元で囁くように言うと、海羽はびくりと震えた。おそるおそる、といった感じで、顔を隠していた手を半分退かして、ちらりとトキヤを見る。
「さて。私が冗談で言っているうちに、白状してください。本当は何なんです? 評価点不足が真実なら、その詳細を聞かせてください。あなたの評価が、降格になるほど悪いのなら、私だって降格になってもおかしくないと思うのですが」
「…先に退いて」
「話す方が先です。早乙女さん、とても重要なことなんですよ。あなたはどうでもいいと思っているかもしれませんが」
 脅迫のようになってしまっているのが不本意ではあるが、こうでもしなければ海羽は真相を話さない気がしていた。
 少し、沈黙が降りて。
 海羽は、仕方無げに吐息した。
 相変わらず体は横向けているので、トキヤにはその横顔しか見えていない。やはり視線は合わせない。
「…ハンデがあるんだよ。獲得点半減、っていう」
 抑えた声音は、諦めを含みつつもまだ悔しげな印象が残っていた。割り切れていない、そんな様子だ。
「はっ…半減、ですか?!」
「あと、ワンスモアなし。つまり、一度不合格になった試験や課題は、その後にどんなすごいのを再提出したところで、評価されない」
「…待ってください。それは、いつからです?」
 トキヤの顔色が、あからさまに変わった。
「初めから」
「はじ、めって」
「一番最初からだよ。一学期始まってから、全部の課題とテストが対象。みんなの二倍以上の課題をこなしても、埋め切れなかった」
 『あの失敗を』…
 彼女のその呟きが何を指すのか、わからないはずがなかった。
 トキヤはひどく悔しそうな顔をして、けれどその表情を海羽の視界から外した。彼女の肩に、額をつけることで。
「再試とは言え、あんなにいい結果を出して…それが認められていない?! そんな、馬鹿な…!」
 叫ぶような、荒げた声。海羽はそれをピリッという痛みとともに聴覚に捉えながら、ぎゅっと目を瞑った。
「そうだよ。表向きには評価点出たけど、実際にボクの成績には加算されてない。他のも全部、機械的に処理される。百点満点とったって、五十点しか入んない」
 動かせるほうの手を動かして、海羽は肩の上のトキヤの頭に触れた。そっと撫でる。
「キミは大丈夫だよ。こんなのボクだけだ。よっぽど、キングの七光りが気に入らないんだろうね」
 その、彼女の手首を。トキヤはばっと掴んで、シーツに押し付ける。
 彼女が驚いている間に。肩を押して、横向きの体を仰向けた。
「い、ちのせ」
「私の心配はいいんです、そんなものはなからしていない! あなたが…あなたの音楽が、その実力が正当評価されていないことが問題なんですよ!」
 トキヤの憤りは、
「仕方ないんだよ。これは、学園長も認めてることなんだ」
 たったそれだけの台詞で流される。
「でもね、一ノ瀬。ボクは、出来ることをするだけ。それは、ハンデがあろうとなかろうと関係ないでしょ?」
「そう、ですが」
「実力が正当評価されないなんて、芸能界では珍しくない。いろんな人の思惑の中で、流されまくった果てにどうなるか、でもその責任を他人に求めるのも間違ってるとボクは思う。流されていたって、出来ることはある。“チャンスを拾って、最大限生かせるタイミングで使う”これだけうまくいけばいい。どんなものでもチャンスになる、拾えなかったなんて言い訳はそもそもありえない。まぁ、学生期間のうちは、流れを見るだけでも勉強になるから」
 いきなり評価されたいとは思ってないよ、と。言いながら、
「ねぇ。眉間に皺寄ってる。一ノ瀬、せっかくのキレイな顔がもったいないって」
 海羽は苦笑した。
 トキヤは、むっと更に不機嫌そうにし、
「あなたのせいでしょう」
 言い返した。
「えぇ?」
「あなたが私に変に気を遣うからです。もっと早く教えてほしかった」
「それは…だって、言いにくいし。それに、こんなハンデ背負ってるって知れたら、…」
 言いかけて。海羽は、んー、と唸って黙った。
「…なんです、言いかけてやめないでください、気持ち悪いでしょう」
「いや、まぁ。とりあえず、そろそろ退かない?」
 誤魔化すように、他ごとを引き入れる。
「退いたらあなた、適当に逃げるでしょう」
 誤魔化されない、と。トキヤの目が主張する。
「ちゃんと言うよ。ただ、この体勢はちょっと」
 手首も肩も痛いよ、と。それが本当の理由ではないだろうなというのは、表情で察せた。
 トキヤは、
「隠し事をするあなたがいけないのでしょう?」
 そう言った後で。内心、自分を嘲る。『どの口が…』と、それは自分自身に投げつける悪態。
「だから、言いにくかったんだって。…あぁもぅ、キミ、意地悪だね!」
「えぇ。だから早く観念なさい」
「ったく…」
 仕方ないな、と。呟いた彼女は、
「…キミと音楽するの、好きなんだよ。だから、あんなこと知られたら、もうキミの曲を作れないって思って。それが嫌だったから」
 視線を逸らしても、距離が近いせいで動揺はおさまらない。さっきまで程顔色が悪く見えないのは、紅潮によるプラス効果だろうか。
「翔が教えてくれた。キミが歌う曲と、ボク個人の楽曲には差があるって。ボクの音楽は“寂しい”けど、キミが歌う用の曲は、それが和らぐんだって。自覚してなかったけど、もしもそれが本当なら、これは手放してはいけないものなんだなって。おじ貴がボクを学園に入れた、理由への…答えの一つ」
 海羽の音楽が“寂しい”のは、海羽自身が寂しいから。
 その翔の言葉は正しいと、本人も思っている。
 ずっと、一人だった。ピアノに向かい、ただひたすら弾き続けていた。捨ててしまいたいと思いながら捨てられなかったのは、それが自分の中の唯一だとわかっていたからだ。
 けれど、一人だけではだめなのだと、この学園に来て痛感した。
「キミに限ったことじゃないのかもしれないけど。でも、少なくとも今は…キミの声がなきゃ、ボクの音楽はただの“音”でしかないんだ。なのに、キミも歌ってくれなくなったらって…」
 考え出すと止まらないマイナス思考は、誰でも持っているもの。
 けれど。その不安が杞憂であると、どうしても伝えたくて。
「私が歌うことで、あなたの“寂しさ”が癒されると言うなら、いくらでも歌いますよ。お安いご用です」
 シンガーとして、この人に必要とされている。そう思うのは、自惚れだろうか。
 必要とされたい、と願うのは…我儘だろうか。
 彼女の音楽に、どこか冷えた空気は感じていた。それが、寂しさだと見抜けなかった。そうと知っていれば、もっと早く。
「私の声にも、あなたの音が必要なのです」

 もっと早く、抱きしめていたのに。

「…あなたさえよければ、私はずっと、あなたの曲を歌っていきたいと考えています。これから…二学期、そしてもちろん、卒業オーディションも。あなたの曲を歌って、デビューして。その先もずっと」
 この台詞を、まさかこんなシチュエーションで言うことになるとは、トキヤ自身予想だにしていなかった。
 けれど、今言わずしていつ言うのか。
「ボクの?」
 彼の描く未来図に、自分がいるなどと思ってもみなかった。海羽の驚きはあからさまで、“信じがたい”というニュアンスを含んだ眼差しでトキヤを見ている。
「ボクの音楽を望んでくれるのは、ありがたいと思う。本当、ありがたすぎてもったいない」
 海羽は、自分の中の感情を確認しながら言った。涙が出そうなほど、嬉しいと思う自分がいる。
「でも、さっきも言ったように、ボクにはハンデが付きまとうんだよ。クラスも違くなるし」
「聞いた上で、考えが変わらないから私もあなたに言ったのですが」
「……ほんとに変わってるね、キミ」
「あなたに言われたくありません」
「それもそうか。…でも…」
 海羽は思案顔で固まった。
 当然だろうと、トキヤにも思えた。彼女が背負っているものは、学園にいる間だけでおさまるものではないだろう。素性を伏せて活動することは当然できるが、現状、学園・事務所関係者内でも海羽を抑圧するものがある以上、もうずっとついて回ると思ってもいい。
 その背に控える、存在が大きすぎるがために。
「…はは。ダメだね。どんだけ弱いんだ、ボクは…」
 また彼女は視線を外して。
「望まれて嬉しいはずなのに、素直に喜べない。ほんとにいいのかなって、何かあったらどうしようって。…巻き添えたら、どうしようって」
「ご心痛のところ申し訳ないのですが、私だって非力ではあっても無力なわけではありません。兄の…HAYATOの存在がある上でこの道を目指していますし、そう楽に歩んでいけるものとも思っていません。だからこそ、道が苦難とわかっているあなたと歩みたいと考えているのです」
「甘い考えの相棒はいらないってこと?」
「端的に言えば」
 それでも、彼女は顔を背けている。
「…まだ不安ですか?」
 その、頬に。トキヤは唇を寄せた。触れた吐息と温度に彼女が驚いて、
「ちょっ…」
「あなたのその不安を取り除くのに、何が必要なのでしょう? これだけ傍にいて、本心を言ってもあなたは足りないと言うのだから」
「や、別に足りないとか言ってないって。つか、まず退こうよ、一ノ瀬っ」
「私では不満、ということですか」
「ちょ、何に対しての問い? 答えにくいって」
「あなたにとって、私は何なんですか?」
 その疑問符を囁いてから、後悔しなかったと言えば嘘になる。何、と訊いて、自分の望まない答えが返って来たら。
 でも、煮え切らない彼女の、心の中を知りたかった。
 海羽は、小さく吐息して、
「学友。シンガー…パートナー、とまでは、まだ」
 そう言った。基本素直な彼女のことだ、これが嘘だとは思えない。
 トキヤは、そうですか、と呟いた。
「…ボクにだけ言わせるの? キミも言ったら。キミにとってボクは?」
 訊き返されて、トキヤは一瞬目を丸くする。そして、
「そうですね。…“好きな人”でしょうか」
 それが心底本音だと、彼女は気づくだろうか。
 半ば試すような、そして祈るような気持ちで彼女の反応を待つと、
「からかってるの?」
 低い声で、彼女は。
「そう思いますか?」
「疑問符を疑問符で返すのってズルいんだよ」
 テンションが下がったのは、怒っているからだろうか。怒る、まではいかなくても、機嫌は悪くなっている。
 確かに、そうかもしれない。恋愛の話はしていなかったのだから。
 やはり伝わらないか…トキヤは内心で溜息をつき、
「からかっているわけじゃないですが、どんな反応をするかなと」
 意地悪さ二割増ぐらいで。
「それをからかってるって言うんだよ」
「真っ赤になっているあなたが、思いがけず可愛くて」
「ひっぱたいていい?」
「それは勘弁してください。人前に出るバイトをしているので」
「腫れあがったほっぺで仕事したらいいんだよ」
「私だけならともかく、同僚たちにも迷惑がかかるのでやめてください」
「…その逃げ方もズルいよ」
 ずっと横を向いた彼女の、赤い頬と。不機嫌に尖った口と。拗ねたような声音と。
 学校では見られないだろうなと思う、“海羽様”とはずいぶん違う姿。
 そんな彼女が、
「一ノ瀬。冗談とかでも、そういうこと言っちゃダメだよ」
 不意に、声のトーンを落として。
「早乙女さん?」
「好き、とか。いつか本気で伝えなきゃならない時に、信憑性が薄くなる。それでなくても、キミはこれからたくさんの“好き”を歌にのせて行かなきゃならないんだから」
 大事にしてよ、と。まさかそんなことを言われると思わず、そして完全に冗談の枠に仕分けられてしまったと知って、トキヤの胸がジクリと痛む。
「…そう、ですね。軽率でした。ですが、」
 海羽と同じように、声のトーンを落として。囁くのとは違うニュアンス。
「…私だって、まさかこんな体勢で話す羽目になるとは思っていませんでしたが、こうしてもあなたはまだ目を逸らすでしょう。真面目な話をしているのですから、きちんと私を見てください」
 抑え目に話す分、真剣みを帯びた言葉になった。
 海羽は、ゆっくりと顔を正面に向ける。ごく近い距離で、視線が噛みあった。
「一ノ瀬…」
「目が怯えていますね。らしくもない」
「…苦手なんだよ」
「私がですか?」
「キっ…キミに限ったことでなくっ、男の人は…苦手なんだよ。ハコイリなもので」
 それが、冗談やごまかしかどうかは正直判別しかねた。
 実際、海羽はあまり世間に擦れていないように見える。学園長であるおじの庇護も厚く、龍也や林檎といった身近な人間たちも、過保護と言えるほどに彼女をとりまく。男性ばかりの中にいるが、彼女にとって彼らは“異性”の枠には入っていない。“家族”という表現が、一番適切だ。
「ハコイリ、ですか」
「悲鳴あげたりしなくなっただけ進歩だろうけど。苦手は苦手。シャイニング事務所は男の人の方が多いから、学校入る前にやってたアルバイトのおかげで多少はよくなってるけど…近いと、まだ駄目」
 学生になる前に龍也の手伝いをしていたことは、トキヤも聞いたことがあった。だから今でも、時折呼ばれて手伝いに行っている。その頃に知り合ったのだろう、学園内で事務所関係者に会うと、親しげに話を始めたりという光景を見たことがあった。それは、男女問わない。
「そんなに苦手そうには、見えませんが」
「だから、慣れては来てるんだって。でも、…こういうシチュエーションで会話するとか、普通はないでしょ?!」
「そうですね。そうしょっちゅうあるのはどうかと思いますね」
「思うんなら、退いてって」
「しょっちゅうじゃありませんから」
「…なんなの、もともと理屈っぽい子だとは思ってたけど」
 次第に、言い合いが喧嘩腰になってきた。
「確かに年齢差はありますが、“子”と言われるほどじゃないでしょう。あまり子供扱いしないでほしいですね」
「そこは今、関係ないでしょ」
「訂正しろとまでは言いませんよ。ただ、…あなたが言う程私は子供ではありません」
 年齢差に由来するのだろう事柄で、気になることがトキヤにはあった。もともとの性格もあるとも思うが、
「あなた、少し庇いすぎです。私にもそうですが、他の年少者に対しても」
 この際だからと口を出る言葉。
 海羽のそれは、やや過剰だと思えた。普段過保護にされているから基準が大げさなのかとも考えたが、そうでもないようだった。
「先程の、巻き添える云々も。万が一そうなったとしても、私は覚悟の上であなたと一緒にと言っている。もちろん、ただ淘汰されるつもりはありませんから、どんな苦境も迎え撃つ気構えでいます。私がそう思えるのは、あなたがいるからという理由もある。なのに、あなたときたら、“自分がいるから一ノ瀬が被害を受ける”とでも思っているのでしょう? はっきり言いますが、あなたが居ても居なくてもこの道は険しいのですから。あなたが居ることで、私はすべて乗り越えて行けると信じているのです。居てくれなければ困ります」
 彼女に反論の隙を与えず、トキヤはここまでを一気に言った。
 説得力があったかはわからないが、目の前の海羽は相変わらず動揺している様子で。
「…まだ、わかってもらえませんか? これ以上、と言われると、…あとはもう、それこそプロポーズと紙一重な言葉ばかりになるのですが」
 言ってもいいですけど、と付け加えると。海羽はさらに顔を赤くして、
「…いい、いらない。つか、もう今時点で十分プロポーズめいてるっていうか、なんでボクはこんなことをキミから言われなきゃなんないんだろうっていう疑問がっていうか……」
「私からは言われたくありませんか」
「っ、いちいち卑屈な取り方しないっ!」
 視線を合わせづらい、けれど逸らしてはいけない…そんな葛藤が見える。
 海羽は、溜息を一つ。
「ボクは…庇いすぎてる?」
「そう思います。年長者故に、でしょうけれど。時折ならばそれもいいでしょうが、万事ではあなたも持たないでしょう」
「良くないこと?」
「そうですね。あなたは、こちらが甘える前に甘やかすタイプのようですから。それに頼りすぎて堕落するか、見くびられていると怒るか…大まかにはこの二つに分岐でしょうね」
「そうなの…キミは、後者なのかな?」
「怒って、まではいませんが。随分過小評価されているのだな、とは…感じています」
「そんなつもり、ないんだけど」
「でも、あなたは私の力を信じていないでしょう? まぁ、シンガーとしてはそれなりに、なのかもしれませんけど」
 歌唱では、海羽はサド気質なところでもあるのかというぐらいに無茶スレスレのところまで要求してくる。キーの高さ低さ、テンポの速さ。曲内のドラマ性。にっこり笑って『できるよね? このぐらい』と言ってくるのだ。そして、トキヤは当然応えて見せていたわけだが。
「…早乙女さん」
 少し、改まったようなニュアンスを持って。トキヤは、海羽を呼んだ。
「あなたがどう言おうと、私の中では“パートナーは早乙女海羽”一択です。これは、明日だろうが一年後だろうが変わりません。間もなく、卒業オーディションのパートナー選出の用紙が配られると思います。私は、あなたの名前以外を書く気は皆無です」
「い、ち、のせ…」
「たとえあなたが退学になっても。あなたの曲以外で卒業オーディションに挑む気はない」
 はっきりと言い切られる台詞。まっすぐ結ばれる視線。
 海羽は、どこか渋い顔をしていたが、
「お馬鹿さんだよ、キミは」
 やれやれ、と言わんばかりの呟きをこぼした。
「多分、おじ貴はボクを除外するように言ってくると思う。ボクのハンデをみんなに知らせるかはわからないけど、ボクへの点が辛いことはみんなもわかってると思うし…」
「なら、誰とも争わずにパートナーになれそうですね」
「そっち? キミ、案外楽天的なんだね」
「前向きと言ってくださいよ。…それともまさか、誰か他に決めている人がいるのですか?」
「決めて…はないけど」
「では、私を選んでくれますか?」
「それ、キミだってわからないよね? キミの実力も大したもんだし。誰かがキミを選ぶかも」
「ですから。誰が私を選ぼうとも、私はあなた以外はあり得ないと言っているでしょう」
 何回言わせるんですか、と。
「いいじゃありませんか、七光り組で。ここで組んでいる限り、他の人には迷惑になりませんよ」
「そんな。…」
 納得しがたい様子で、海羽はむぅと口を閉ざす。
 訪れた沈黙は、彼女の吐息がかき消した。
「ごめん。今返事はできない」
「まだ渋るのですか?」
「渋ってない」
「では、決めてください」
「大事なことなので、お時間をいただきたいです」
「直感でいいでしょう、ずっと一緒にやってきたのですし」
「……」
 また黙り込んだ海羽は、譲るつもりはないらしい。
 トキヤも溜息をつく。
「頑固な人ですね」
 知ってたけど、なんて心の中で付け足す。海羽のこの性格は、わかっていたつもりだった。けれど、ここまでしてもダメだなんて。
「…多少強引なことをして、押し切ってもいいのですけれどね」
「自分が押しに弱いことはわかってるよ。でも、こればっかりは」
「なぜです?」
 言いながら、トキヤは海羽に顔を近づける。ただでさえいくらもなかったような距離が、さらになくなって。それでも海羽は、今度は視線を外さない。
 見つめあったまま、あと数センチあるかどうかというその空間に。

「…大好きな子の夢をこの手で壊す、その覚悟がまだできてないから」

 海羽は言った。
 そして、
「そろそろ離れて、一ノ瀬。ベッドの上でこんなことして、言い訳なんか成立しないよ。コドモじゃないんだから」
「早乙女さん…?」
「即答できない理由も言ったよ。キミに訊かれたことには答えた」
「…私と組むことで、誰の夢が壊れると…?」
「誰かの夢は壊れるかもしれないよね」
「誰か、じゃないでしょう。あなた今、“大好きな子”と言ったじゃありませんか。明確に、誰、とわかっている」
「ごめん、そこは言いたくない」
「なぜ?」
「…誰でも、あるよね? 内緒にしていたいことって」
 海羽の瞳に、どこか冷めた光を見たトキヤは、ドキリとして。
「意地悪の仕返ししてあげようか、一ノ瀬」
 その口調に、彼女の“モードチェンジ”を悟る。
「キミを退学にするとね。その子の夢は守られるんだ。キミの夢をつぶして、そっちを優先させたっていいんだよ、ボクは」
 さっきまでとは違う、けれども今の彼女は“いつもの彼女”だと思った。
 学園内で見る、“海羽様”と呼ばれる彼女の。
 ずっと紅潮していた頬も、今はおさまっていて。
「早乙女さ…」
「なんてね」
 にこっ、と。不意打ちのように、彼女は笑顔で言った。
「そんな乱暴はしたくないよ。だから、ちょっとだけでいいから時間ちょうだい」
 笑顔、のうちの何割かに困ったようなニュアンス。言葉にしない、“お願い”の要素。
 わずかにも計算を感じる、彼女の表情。
 けれど、
「…わかり、ました」
 ほだされたのではなく、引き際だとトキヤは感じ取った。今は、押し切れない。
 仕方ないな、と。頭の中で呟いて。海羽にとっては“ようやっと”その場所から退いた。




 やや重かった二人の時間は、トキヤの携帯が鳴ることで終幕を迎える。
 彼曰く“バイト先から”のその電話で、トキヤは退出を余儀なくされた。
 玄関先まで見送る、と言った海羽を、
「馬鹿なこと言わないでください」
 の一言で寝室に足止めする。
 紅潮が完全におさまった彼女は、初めに見た時よりも顔色が悪くなったように見えた。比較の問題かもしれないが、まだ本調子ではないのに人と会って消耗したことも原因だろう。
「とにかく、体調を戻してくださいね」
「ん…。悩みひとつ解決したから、いいと思うけど」
 まだふらつく足で、彼女は立ち上がる。寝ていろと言っても、これは聞き入れなかった。
「悩み?」
「降格のことをキミにどう話すか、だよ。キミにだけは、自分の口から言わなきゃって思ってたから。全校告知になる前に、キミに会って話さないとって思ってたら、なんか逆に体調下がってっちゃって」
 なんとか均衡を保って立っている海羽が、トキヤを見て微笑む。
「でも、間に合ってよかった」
「どちらにしても、私には非常に心臓に悪いお知らせでしたけれどね」
「はは…二学期終わったら退学でしたってことにはならないようにしたいけど」
「まったくですよ」
 別れ際ぐらい、穏やかに笑って。
 それじゃあ、と。トキヤが踵を返し、彼女に背を向ける。
 その、直後。
 一歩、踏み出そうとしたトキヤを、阻む。それが、彼の背後から伸びた腕と、
「…一学期の間、いろいろ一緒にやってくれて楽しかった。ありがとう」
 背中に直接伝わる、彼女の声と。
「早乙女さ…っ」
 驚いたトキヤが振り向こうとしたが、彼女の腕がぎゅうっと力を強めて、それをさせない。
「ほんと、最近悔しくて。結局、おじ貴が正しくて、ボクはわがまま言ってごねてただけだったって思い知って。他にも、ボクに学校行けって言ってくれた人がいるんだけど、それこそちょっと前までは“二人してボクに嫌がらせするのか”ぐらいに思ってたんだよね。それが、今はもう、…キミらと離れたくないって思うまでになっちゃってるんだ」
 “キミら”ということは、トキヤ一人を指しているわけではない。それが少し残念でもあり、けれど補って余りあるほど嬉しくもあり。
「きっと、同じように思ってますよ。翔やレンのことでしょう?」
「うん。…そうだといいなぁ」
 希望を、呟いて。
「一つ区切りで、キミには特にお礼言いたかった。でも、正面切って言うと、…なんかヤバイことになっちゃう気がしたもんだから。こんな形でごめんなさい」
「…少し、卑怯なのでは?」
 ぴったりついている背中側の彼女には、どうしたってこの加速中の鼓動は聞かれているだろう。声音ばかり落ち着けても、そちらは落ち着きそうにない。
「うん。最近ちょっと、恋愛脳気味で。もちろん、こんなことしてるのもマズイってわかってる。退学フラグにニアミスし過ぎ、おじ貴に知れたらまた怒られちゃう」
 ダメだねー、なんて。自分を茶化して笑った彼女が、
「でも、たぶん、…人恋しいんだ。このままずっとこうしてたいぐらい」
 ぼそりと、言って。
 トキヤが、彼女の手に触れようとしたのだが。
 直前に、するりと抱擁を解いてしまった。
 そして、彼が振り向く前に、
「なんちゃって。卑怯者でごめんなさい」
 トキヤの背をとんと押して、よろけている間に部屋のドアを閉めてしまった。
 パタン、と。背後に、隔たり。
「っ、ちょ、早乙女さん?!」
 壁の色と同じ、白いドア。カチン、と、鍵のかかった音がした。
「早乙女さん、なに言い逃げてるんですかっ」
 彼女の気配はまだ、このすぐ向こうにある。
「やぁ、さっきまでも大概ヤバかったんだよね。キミ、なかなか退いてくれないし」
 声も、割と近く聞こえた。
「あんな、ちょっとこっちから近づいただけでも一線越えれちゃいそうなのは、さすがにね。目の前に美少年、どうしよっかなって」
 冗談のように言っている、その何割が“冗談”なのだろう。
「苦手でどうのと言っていたくせに」
「そうだよ? キミだからさ。もう、キミという存在には慣れてきてるから。あと、あのほんの少しの苦手意識が消えてしまったら、…」
 また、茶化した笑い声。けれど、セリフは最後までは聞こえてこなくて。その代わりに、
「玄関、鍵、気にしなくていいから。気を付けて帰ってね」
 これで終わり、そんな言葉を。
 残っている苦手意識が消えてしまったら、どうなるというのか。
 男性が近距離にいることを嫌がっていた彼女が、自分から(背中側とは言え)抱きついてきたくらいだ。苦手意識などと言うものは、もうほとんどないに等しいのだろうに。
 “キミだから”
 この一言が、トキヤにとって何よりも重要であり、…一つの決心への引き金を引く。
 隠しているのは無理、それが結論。
「早乙女さん。あなたは本当にひどい人だ。この状況で行けと言われても、仕事にならないじゃありませんか」
 トキヤは、ドアに手をつき、
「ですが…あなたがそうするなら、私も便乗させてください」
 この向こうにいる、“卑怯者”に。
「先程の…と言っても少し前ですが…私にとってあなたとは、の回答です。あなた、見事に流してくれましたが…あれは、」
 聞こえていないかもしれない。そうは思ったけれど、止まらなかった。
「あれは、本心ですからね。嘘でも冗談でも、からかったわけでもなくて。私にとってあなたは、そういう存在です」
 しん、と。静けさが降りる。ドアの向こうは無反応で、けれど気配はまだあるから聞こえはしたのだと思う。
 トキヤは、溜息をつき。天井を仰いで、

「…好きです」

 そう、言って。
 反応を待たずに踵を返すと、階段を下りて行った。




 一方、隔たりの向こう側。
 海羽は、遠ざかる足音を振動で感じながら、ドアにもたれて。ズルズルと、崩れるように床に座り込んだ。
「な、ん…っ」
 両手がこめかみを抑える。
 聞こえた言葉、告白。
 気のせいとか聞き違いとか。そんな逃げ方をしたら、それこそ卑怯どころじゃない。
「そんな、馬鹿なこと…っ」
 ドクン、ドクン…と。強く、早い鼓動は彼女の意識を苛む。
 そのまま、冷たいフローリングに体を横たえた。
 また、気を失うかもしれない。自分の中にある危機感に、彼女は瞼をきつく瞑る。
 けれど、あの夜ほどに頭痛がしていないと気が付いた。
 苦しいのは、鼓動だけだ。
「進歩? 進化? …成長?」
 当てはまりそうな言葉を探すが、自分では答えが得られない。
 ただ、とにかく胸が痛くて。
「一ノ瀬…キミは、罪をなぞらない…?」
 相手のいない問いかけを、空間に投げて。
「まいった…また眠れそうにない。せっかく、一つ心配事が減ったのに」
 海羽は、大きく吐息した。





2013.07.19 初アップ