『お前はこの二人に曲を提供し、そして二人共を入賞させろ。それができなければ、お前のデビューはおろか卒業証書も出さん』


 おじの言葉を反芻して、溜息をつく。
 日は落ちて、辺りは夜。
 蚊に刺されないようにと虫除けを手に、彼女が来たのは湖畔のガゼボ。
 ここで気を失って、それからベッドに上の住人になったんだったな…と思い出しながら。何度目かの溜息をつく。
 口に放り込んでいるロリポップ、棒をつまんで取り出して。
 今日は、月ではなくて星がすごい。
 薄明かりに、飴を見つめる。
「さぁて、どうしよっかなー」
 それも、何度目の呟きだろうか。
 ふー、と吐息して。また飴を口に入れようとして。
 少し遠く、草を踏む足音が聞こえたのに気付いた。
 いい夜だ、誰か散歩しているのかも。
 そう思いながら、音のした方を見ると、確かに人影がこちらに歩いてくるのが見えた。
 彼女は、ガゼボのベンチに座ったまま、気にしてませんよと言う風にしていたのだが。
 その人影が誰なのか、目視でわかるほどまで近づいてきたときに。
「…あれ。レアキャラ遭遇…」
 つい、そう言ってしまった。驚いたせいで、口に入れかけたロリポップが彼女の手からポロリと落ちる。キャンディ部分が、コン、と、床を叩いた。

 星明りの下。
 やってきたのは、四ノ宮…砂月の方だった。





<i>Episode.13 君は砂糖菓子のよう</i>





 眼鏡がなければ砂月なのだろう、と。それは安直だと思いはしたが、実際こちらに気づいた彼が、
「…よぉ。久しぶりだな」
 なんて言ったものだから。これが“那月”であるわけもなく。
 海羽は、落ちてしまったロリポップを拾って草むらの方に投げると、
「脅かさないでよ。飴、落っことしちゃったじゃんか」
「アメ?」
「好きな味だったのに」
「なんだそりゃ。ガキか」
 ハッ、と鼻で笑いながら。砂月は海羽のいるガゼボに入ってくる。
「…なんかあったの? キミが出てきてるなんて」
 円を描くベンチに、海羽と向かい合うぐらいの位置で座った砂月に。海羽は持ってしかるべき問いを投げる。
 砂月は、湖面の方を見ながら、
「たまにあるんだよ。那月がわざと眼鏡外して、俺を表に出す時が。大抵は『月が綺麗』とか、そんな理由なんだがな」
 そう答えた。
 意図的に入れ替わりが可能なのか…と、思考の中で呟いた海羽は、
「へぇ。じゃあ、今夜は『星が綺麗』なのかな?」
 その場所から見える限りだが、景色を眺める。
 満天の星を移す湖面、対岸の森、その上の夜空。ここからのロケーションは溜息が出るほど素晴らしい。
 砂月は、
「…どうだろうな。今は眠ってるから訊けねぇし」
 彼女と同じ景色を見る。
 そして、ふいと視点を変えて海羽を見ると、
「お前。メンドクサイことになってるだろ」
 と。
 海羽は、え? と首を傾げて、
「んー。どれのことだろ。評価点半減? クラス降格? ダブルパートナー?」
「ゼンブだよ」
「おっと。これは規模が大きいな」
「那月もダメージ受けてんだよ」
「はぁ? なんで、」
 驚いて言ってから。海羽は、あー、と唸った。
「繊細にも程があるよ…ってか、それを気にするぐらいなら、ボクをパートナーにしなきゃいいのに」
 多分そういうことなんだろうな、と。納得して、額を抑える。
 眼鏡を外して、視界が不安定になっただけで人格が交代してしまう程の繊細さ。それなら、海羽の状況を“他人事”で割り切れないかもしれない。
「那月は、本当にお前の音楽好きだからな。最新作なんか、頭イカレんじゃないかってぐらい聴いてるぞ」
「最新って、学期最後の?」
「一通り聞いて三十分、それを何回も繰り返し。アイツの一日の何割、お前の音楽に浸ってると思って」
 中毒、という言葉さえ生易しい。
 砂月のセリフに、海羽は複雑そうな顔をした。
「ありがたいけど、ちょっと心配だな…」
「おかげで、俺も聴かされる羽目になってるが」
「それはまた迷惑な話だね。ボクからちょっと言っておくよ」
「…いい。俺も、…嫌いじゃない」
 ぼそ、と。砂月は言って、また視線を湖面に移す。
 そんな彼を見て、海羽は小さく笑った。
「ありがとう」
 素直な礼の言葉に、砂月は眉根を寄せる。
 静かな時間が、流れた。

 沈黙は風の音が和らげ、音がしそうな星空を演出する。
 海羽は、
「…ボク、四ノ宮のこと知ったのって結構最近なんだ」
 邪魔にならない程度の声音で言う。
「は?」
「四ノ宮那月が、クラシック界では結構な有名人だってことを…ね。プロフィールとか、ちゃんと見たことなかった。そりゃスゴイわけだよって納得した」
 その道でかつて“天才”と言われた少年。
 それがなぜ、アイドルを目指しているのかはわからない。
「自分の力で上がれる子に、ボクは何ができるのかなって。さっきまでそんなこと考えてマシタ」
「…悩むようなことか」
「真面目なんだけど」
「特別に何かする必要なんかねぇだろうが。お前が那月の傍にいて、思いついたままにピアノ鳴らしてればそれで」
「なにそれ。そんなんで合格するなら、誰も苦労しないよ」
「…キモは言ったぞ? “お前が那月の傍にいて”」
「っはぁ?」
「それが那月の望みだからな」
 砂月の目は、湖の方を向いたまま。
「…お前、那月が自分に惚れてるっての、気づかないふりしてるだろ」
「<S>    </S>っ」
 かぁっと、海羽は顔を赤らめて。
「…やっぱりそうなの?」
 これを問い返すのもどうだろうか。
 砂月はまだ彼女を見ずに、大げさなため息を吐いた。
「まぁ、わかりにくいけどな…。那月は、大抵のものが好きで、自分より小さいものの大半が“可愛い”になっちまう。何でもかんでも“カワイイ”“好き”って言いやがるから」
「果てしなくわかりにくいよ、そんなの。そのあまたの“好き”の中から、特別な好きを探せって?」
「お前が特別なのは、すぐわかるだろうが」
「…いやぁ…どうだろ…」
 気づかないふり、をしていたわけではない。まさかな、ぐらいの感じだった。
 クラスも違うし、接点は薄く。向こうも、そこをどうにかして近づいてくるわけではなかった。
「あの子、同じ空間にいたとしても、ボクの方には来ないし。SとAの合同授業のときとかも、混ざっていいってことになっても、Sクラスの方には来なかったよ? 来たとしても、基本は翔にべったりだったし」
「…お前、一回那月を遠ざけただろ」
「っえ、なんのこと」
「距離を置きたがった」
「…うわ、ちょっと、なんのこと?」
 砂月の言葉が、すぐには思い当たらなくて。
 海羽は、今まで那月とした会話を、必死で思い出した。
 いくらもない。セッションの時、墓参りの帰り…それこそ、まともに会話をしているのはそのぐらいだ。
「お前に関しては、あの那月がやたらと慎重だ。とにかく“嫌われたくない”の一心でな」
 “好かれたい”ではなくて“嫌われたくない”。
 つまり、少なからず好意があるのを知っていることが前提だ。
 海羽は頭を抱えて、さして遠くないはずの記憶を引っ張り出す。
 そして、
「っ、え、アレ?」
 ようやく思い当ったのは、墓参りの帰りで彼に助けられた日。
 確かに、言った覚えがあった。

 <S>   </S>好意は、嫌じゃないよ。
 <S>   </S>でも、“触れたい”って言われて、どうぞとは言えない。
 <S>   </S>よく知らないキミに、そんなことされたくない。

「まさか、あの時の? 遠ざけたって、そういうのとは違うっていうか、あの時は本当に近づかないでほしかったから…っていうか、遠巻きにしてたってボクがあの子に対してあの子が望むような好意を持つかだってわからない。そもそも、興味自体持たない可能性だって」
「だから、打って出たんだろ? お前のあのバカげたハンデを知った上で」
「あ、オーディションのパートナー…」
「堂々と隣にいられて、パートナーともなればお前も那月を知るようになる」
「…デビュー、したいんだよね? あの子」
「ったり前だろが」
「なんか、目的が違っているような」
 デビューのために海羽という作曲家を選んだ、のではないように思えてならない。
「那月は結構欲張りなんだ。お前もデビューもどっちも欲しい」
「…見かけによらないなー」
「欲が強くなきゃ、芸能界なんざハナから無理だろうが」
「そうだけど」
 えぇー、と。海羽は困り顔をして、前髪をかきあげた。
「これは…アレか。噂に聞く、“モテ期”とかいうやつか」
 ぼそ、と呟いて。それを聞いた砂月は、むぅ、と不機嫌な顔をし、
「やっぱり、他にもいやがんのか…お前狙ってる奴。あのチビじゃねぇだろうな」
 低い、不穏な空気纏う声音で。
「チビって、ちょっと! 翔にちょっかいかけたら許さないからね?!」
「あぁ?!」
「っつか、翔はそういうんじゃないったら! 大体、キミが翔に何かしたら、那月だって悲しむでしょうが! それ、本末転倒じゃないの?!」
 那月の憂いを取り除くためのはずなのに。増やしてどうするんだ。
 声を荒げる海羽に、砂月は不本意そうにしながらも口を閉ざす。けれど、今の食い付きからしても、海羽にとって来栖翔が特別な存在であることは裏付けられた。それが何より面白くない。
 俺の那月よりもあのチビのほうが大事だと? 
 声に出さずに呟いた。
 海羽は、深く溜息をつく。
「…なんにしても、相手誰にせよ、ボクは応えられないから。那月も…悪いけど、片思いで止めた後に諦めてもらえるとこっちはありがたい」
「なんでだよ」
「…芸能界で生きていくんでしょ? シャイニング事務所の所属ってことになれば、他のとこよりも色恋には厳しい。成功してもらいたいし」
 言いながら、彼女は立ち上がった。ガゼボを出て、湖畔に向かう。
 それを追って、砂月もガゼボを出た。
 そよぐ夜風が、海羽の髪を揺らす。
「なんでおじ貴が、そこまでしてアイドルの恋愛を禁じるのか…残念ながらボクは知らない。おじ貴があの歳まで独身でいることに関係してるかもなとは思ってるけど。でも、おじ貴の成功は、そうやって何もかもを歌に…芸に捧げてきたからこそだと思ってる。そうでもしなきゃ、たどりつけないんだって」
 空を見上げる彼女は、両手を伸ばして。星に、指先を。
「誰よりも輝きたいと願うなら、恋なんかしてる場合じゃないよ」
 ぱた、と手を下ろした彼女が振り向くと、結構近いところに砂月は立っていた。背の高さに少々の威圧を感じつつ、
「キミの那月が、輝けないなんて。嫌でしょ?」
 そう言って微笑んだ海羽を、砂月は表情少なに見下ろして。少し間を開けてから、
「…そうやって、人のせいにしてるのか」
 真相を射抜く、言葉を。
 海羽は首を傾げる。
 砂月は続けた。
「本音、言ったらどうだ。お前はそうやって、誰かを気遣うふりしながら『キミが改心してね』と含ませる。好きになる方が悪い、そう言わんばかりだ。違うだろ。応えられないお前も悪いんじゃないのか」
 海羽の表情から、笑みが消える。
「お前が応えられないのは、…誰かの好意に、恐怖を覚えるからだろうが」
 笑みは、睨みになり。けれど、砂月は怯むことなく続ける。
「お前は、想いが“変質”することを身をもって知ってる。俺が那月を通して見てきたお前は、自分から距離を決めて相手に近づく分には何ともないが、相手から距離を詰められると平静でいられなくなる…そう見えた。強い好意を持って寄ってこられるの、怖いんだろ」
「…っ!」
 思わず閃いた海羽の右手を、砂月は容易く止める。手首を掴み、そのまま彼女をグイと引き寄せた。
「っ、ちょ!」
「ひっぱたくぐらい図星か?」
「離してよっ」
「いいから、ちょっと落ち着けって。何もしやしねェ」
「…前科あるよね?!」
「されたいんなら話は別だが?」
「言ってない!」
 落ち着け、と。もう一度言われて、海羽は少し無理にだが深呼吸をした。
 近くなった分、睨みもきつくなる。
「多分、そのことには那月も気づいてる。だからこそ、慎重に距離とってた。那月は、あの時の俺とお前の会話は聞いてるからな。好意が変質した挙句にお前から家族を奪い、お前にも大きな傷を残した。触れないように、まして抉らないようにと気を付けながら、お前が来てくれるのをおとなしく待ってたんだ」
「…だから、受け入れてやれとか言うの?」
「すぐに、とは言わねェよ。トラウマがそう簡単には越えられないってことは、俺達だって身を持って知ってることだ」
 海羽の睨みが、少し和らぐ。やっぱりそうなんだ、心の中で呟いた。
 何事もなく、“解離性同一障害”は発症しない。多くの場合は、心に大きな傷を負って、そこから第二の人格は生まれると聞く。
「傷を舐め合え、ってわけでもない。ただ、那月を拒絶しないでやってほしい。お前が、誰かから近づかれることを恐れるように、那月は拒絶されることを恐れてる」
 頼む、と。最後の一言はごく小さかったが、海羽の耳には届いて。
 わかったよ、と、彼女が返事をしかけた…その時。

「…っ!」
 不意に、砂月が顔をゆがめた。あいている方の手で、こめかみを抑える。
「どうしたの?」
「…っ、那月、だ」
「え?」
「那月が目ェ覚まして、…怒ってやがる……っ、違うっつってんだろ、那月!」
 精神内での会話が、現実に口をついて。二人が諍いを起こしているのだと、海羽も悟った。原因はおそらく、砂月が海羽の腕を掴みあげていることと、…この至近距離だろう。
「四ノ宮、誤解! 砂月は、キミのために」
「っ馬鹿、言わなくていい! 何のためにコイツが眠ってるときに話したと思って…っ」
「兄弟想いなの隠すことないでしょ」
「うっるせ…っ…!」
 砂月が海羽の腕を放して、両手で頭を抱える。
 身を屈めたときに、シャツの胸ポケットからするりと何かが落ちた。
 彼の眼鏡だ。
 海羽はそれを拾い、
「…四ノ宮」
 彼に呼びかけて。すっと、眼鏡をかけさせた。
「<S>     </S>っ」
 苦しんだ、荒い息。
「四ノ宮」
 もう一度呼ぶ、と。
「……ごめんなさい」
 そんな声が、呼吸の合間に聞こえた。
 俯いた彼が、さっきまで掴んでいた海羽の手首をそっと取る。
「ごめんなさい、また、あなたに…乱暴なこと…っ」
「誤解だよ、四ノ宮」
「でも、…っ!」
 大切に、両手で。海羽の指先を、包む。そして、
「…嫌いにならないで」
 懇願する声だった。
 祈るような。
 海羽は、やれやれ、と吐息すると、
「ならないよ。そもそも誤解だって言ってる。四ノ宮、ボクはキミを嫌いにならない。わかった?」
 言い聞かせるそれは、年長者ならでわの口調。
「ほんとう、ですか?」
「少なくとも、今日のことではね。砂月はキミを心配してるだけだよ。乱暴なことなんてなかった。まぁ、ちょっとびっくりはしたけれど」
 顔を上げた那月は、泣き出しそうな表情で海羽を見た。
「大丈夫だから。大体、ここでキミを嫌いになったって、卒業オーディションの曲は作んなきゃいけないんだから。気まずいの、嫌でしょ」
「そのため、ですか?」
「それだけじゃないけど…」
「…早乙女さん」
 言いよどんだ海羽に、那月は。どこか改まったように、名を呼んだ。
「なに?」
「少しだけ、…ぎゅってしてもいいですか?」
 え、と。海羽は一瞬固まったが、
「…少しだけ、なら。特別だよ」
 許可を出す。
 それで那月が落ち着くのなら、という考えだった。
 那月は、持っていた海羽の手をそっと離し、代わりにその両腕で彼女の体を包み込む。
 さすがに、体格差がはっきりしているから、女の子としては大柄な方の海羽でも、那月相手なら華奢で小柄な普通の娘だ。
 抵抗はせず、とりあえず気が済むまで…そう思って、じっとしていた海羽の。耳元で、
「もう一つ、お願い聞いてもらえますか?」
 那月が言う。
「な、なに?」
「名前で呼んでみて、欲しいんです」
 お願い、という割には些細なことだと海羽は思った。
「…な、那月? で、いいの?」
「はい」
「そう。じゃあ、…那月」
 なんだと言うのか。
 不思議に思いつつ、希望を叶える。と、その途端。海羽を抱く那月の腕が、ぐっと力を増した。
「っちょ、苦しいって! キミ、結構力あるんだからっ」
 驚いて、少し暴れた海羽の、聴覚に。
 かすめるように聞こえた、言葉。
「っ、え?」
 思わず聞き返して。
 苦しいのは相変わらずだが、何か言ったみたいだしと静かにしてみる。
 …と。
「<S>     </S>好き」
 多分、さっき聞こえたのと同じ。
 どき、と海羽の心臓が跳ねる。

「好き。好き。大好き。あなたが好きです、早乙女さん」

 耳の傍。海羽の意識に流し込まれるのは、那月の想い。
「すぐじゃなくてもいいです。僕を好きになってほしい…」
 たじろぐ海羽は、けれども逃げ場もなく。
「え、っと。否定するわけじゃないんだけど、その、…そう至るにはちょっと、要素が足りない気がするっていうか…っほら、ボクらクラスも違ったし、そんな、好きになるような瞬間とかなかったと思うんだけど」
「…一目惚れ、はダメですか?」
「っえぇぇぇ?!」
「正確には、“一聴惚れ”かな。初めてあなたの曲を聞いた時に、全身に電流が走ったんです。ビリビリビリって」
「なにそれ、表現がベタすぎっ」
「でも、そうだったんですから。それで、どんな人なのかなぁって追いかけていくうちに、…どうしようもないくらい好きになってました」
「それ、勘違いじゃなくて?!」
「…早乙女さん」
「な、なに」
「…今、僕。すっごいドキドキしてるの、わかりますか?」
 抱きしめられ、これだけ密着していれば鼓動の一つや二つ当然伝わるものだ。
 確かに、那月の心拍はかなり早く、大きいのがわかる。
 ただしそれは、海羽自身も例外ではないので、実際どちらのものなのかが判断しかねるわけだが。
「う、うん…」
「こんなにドキドキして、勘違いなんてあるんでしょうか? あなたが僕を許してくれて、ぎゅってさせてくれて、名前で呼んでくれて…こんなに嬉しくて、あなたが好きでたまらないって思うのに、勘違いなんですか?」
 疑問符の嵐は、海羽をジワリと追い込んで行く。
「……っ、わかった! わかったから! 勘違いじゃない、ってことにしておくから! あんまり畳み掛けないでっ」
「ほんとに? わかってくれました? ほんとにほんとに大好きなんですよ、僕」
「だーかーらーっ」
 勘弁して、と。海羽の悲鳴は、涙声になりかかって。
「ちゃんとわかったってば。でも、デビューかかってるんだから、軽率なことしちゃダメだからね。おじ貴のジャッジは時々やたらと厳しいんだから。ちょっとハグするぐらいはなんとか大丈夫だろうけど、それ以上は当然ダメ」
「ダメですかぁ?」
「…アイドルになる気、ある?」
「もちろんです」
「キミと一ノ瀬の両方を入賞させないといけないんだから。楽曲如何の前にキミが校則違反で退学とかになったら困るの! ボクを好きなら、ちゃんと協力して」
 ばしばし、と那月の脇腹を叩いて、“少しだけ”の終了を知らせる。
 那月は、名残惜しそうにしながら離れ、ようとしていたのだが。
 不意に、海羽の顔に自分のを近づけた。
「っ、なに」
 思わず、ぐいと状態を引いて距離を取った海羽に、
「なんだか、いい匂いがしますね」
「っは?」
「甘い匂いがします」
 そう言って。海羽は、
「あぁ、さっきまで飴食べてたから」
 たぶんそれ、と答える。
 と、
「なるほどぉ」
 納得したと微笑んだ那月が、普段のややおっとりとした所作からは想像もつかないほどに素早く動いた(少なくとも、海羽にはそう思えた)。
 海羽の頬を両手でそっと挟んで、…ぺろっ、と。
「……?」
 海羽の唇を、舐めたのだ。
「ほんとだ。あまーい」
 悪びれない那月の、無邪気な笑顔つきの台詞に、
「……っ?!」
 状況の理解が海羽の脳に届くまで、一秒。

<span style="font-size:x-large;">「あ…あまーい、じゃない、この馬鹿ぁぁぁぁぁ!!」</span>

 静かな星空に轟く絶叫。
「この学校追い出されたいの?! つか、死にたいの??!!」
「どっちもやだなぁ」
「へらへらすんなぁっ!!」
「そんなに怒らないで…だって、美味しそうだったから」
 その理由で問題ないとでも思っているのだろうか。
 海羽は、今にも頭部の血管が音をたてて切れてしまいそうなのを感じつつ、
「キミね! 物事には! 限度とか! 節度ってものがあってね?!」
「…はい」
 しゅぅん、と。さすがにしょげる那月を目の前に。…まるで、伏せた耳と垂れたしっぽが見えるような。大型犬がしょげると、こんな感じなのだろうか。
 海羽は、ぱくぱくと口を動かすものの、そこから先が音になってこなくて。
「っああ、もう!」
 振り切るように、言い捨てた。
 深く、少し荒い溜息の後。
「…二度としない。いい?」
 また、言い聞かせるように。今度は、さっきのおねぇさん風とは違う、少々ドスの聞いた脅し風味。
「駄目ですか?」
「駄目です」
「…キスはしてないですよ?」
「っ、かわんない!」
「…だったら、キスにしておけばよかったかなぁ」
「確・実・に、退学だから、ソレ。っていうかもうほんと、お願いだからそういうことしないで言わないで考えないで」
 コレのどこが“慎重”なんだ。砂月の嘘つき。
 心の奥で海羽はそんな苦情を叫ぶ。
「キミが退学になったら、ボクのデビューの条件が満たされないどころか卒業もできなくなるわけで、挙句に一ノ瀬まで巻き込んでの大惨事なんだから。わかって四ノ宮、キミだけの問題じゃないの」
「…あぁ、そうですねぇ。そう言えば」
「ちょっとぉぉぉ」
「独り占めできなかったの、ほんとに残念です」
「パートナーって、そういうのと違うっ」
 これは、根本からいろいろなものが噛みあっていないのではないだろうか。
 そこはかとない不安が、海羽を取り巻いていく。
「一ノ瀬よりタチ悪いよ、キミ…」
 あーあ、と。うんざりしたような溜息と共に呟く。
「トキヤくん?」
 問い返されて頷きはしたが、トキヤの何がどうということまで話せるわけもなく。
 海羽は、
「もう、いいから。ほら、離れて。そろそろ寮に帰らないと、キミんとこは翔が心配するでしょ」
 なんとか、この場がお開きになるように台詞をまわす。
 那月は、そうですね、と微笑んで。今度こそ、海羽を解放した。





 女子寮まで送る、と言って聞かない那月を説得しきれず。建物の入り口まで二人で来る。
「ここまででいいよ。夜に男子が入ってるってなったら、言い訳も面倒だ」
「もっとお話ししたいですけどね」
「…あ、そうだ。ケータイの番号とメルアド教えないと。曲作りでいろいろあるだろうし」
「わぁ、嬉しいです。ずっと知りたかったんですよぉ」
「…別に、わざと教えなかったわけじゃないからね」
「? わかってますよ?」
 お互いに携帯電話を出し、赤外線を使って情報のやり取りをする。
「…明日中ぐらいで、キミの夏休みスケジュール、教えてほしい。一ノ瀬のとすり合わせて、何とか時間作るから」
「トキヤくん、アルバイトがあるんですよねぇ?」
 問いかけに、海羽の手がぴくりと震えて止まる。
「…うん。当てにされてるみたい。ボクは今のところはずっと学園に残るつもりだけど」
「僕は、ちょっとだけ帰省する予定です」
「うん。そういうの、いつからいつまでとか、わかる範囲でいいから」
「はい」
 携帯をしまい、海羽は「じゃあね」と手を振った。踵を返す。
 けれど、その背に。
「…早乙女さん」
 声がかかって。
 海羽は振り向く。
 さっきまで笑顔だったはずの那月の表情は、変わっていて。どこか真剣で、少しの不安が見て取れる。
 呼び止めておきながら少し黙った那月は、発言を躊躇しているように見えた。
 どうしたの、と。彼女が言う、直前。
「……ここで、翔ちゃんと抱き合ってたっていうの、本当ですか?」
 投げられた問いかけは、海羽には大きな衝撃だった。
「は? なんでそんな」
 那月は、そのことが噂になって校内を巡っていると教えてくれた。
 海羽は、知らなかった。噂が流れ始めた頃はまだ登校していたが、その噂に豪華なオヒレセビレが付いてからは、もう欠席を続けていた。
「な、に、それ」
 愕然とした様子の彼女を見て。那月は、どこまでが本当なんだろうと思う。
「最初に流れたのは、ここであなたと翔ちゃんが抱き合っていたっていうこと。そのうち、二人は付き合ってるとか…もっと踏み込んだ内容のものが流れるようになって。あなたが学校に来なくなってからは、謹慎とか停学とか、そんな風に」
「翔は、知ってるの?」
「多分。その上で、翔ちゃんはずっと黙ってます」
「…弁解なし?」
「へたに何か言うと、悪化するって思ってるんじゃないかな。肝心の早乙女さんが、学校に来なくなってましたから」
 海羽は、チッ、と舌打ちした。
 回復してから翔に連絡を取ったが、そんなことは何も言っていなかった。
「在校してんじゃん、二人とも…」
 その事実があっても、噂は収束していない。
「えぇ、だから、全部でっち上げじゃないかって、…少なくとも僕は思ってるんですけど」
「でも、疑わしいとも思うから、ボクに直接確認したの?」
「本当のこと、知りたいですから」
 真っ直ぐ見つめられて、海羽は吐息する。
「口外しないで。翔の進退に関わるから」
 翔が黙っているなら、とも思うが、ここで二人が黙秘をすると噂を肯定しかねない。それに、彼と同室の那月には、真実を教えてもいいと思った。変に二人が気まずくなるよりは、きちんと。
「はい」
 那月は、真剣な面持ちで頷いた。
「…抱き合ってたのは本当。っていうか、あれは“抱き合ってた”という表現に当てはまるのかどうなのか…とにかく、そういう形の接触があったことは認めるよ。でも、それだけだから。そこから発展したすべては、ことごとく嘘」
 一応、周囲に誰も居ないことを確認して。少し抑え目の声で、海羽は言った。
 那月は、そうですか、と呟いた。
「…ボクにとって翔は、他の人より“特別”だとは思ってる。でも、それは恋愛情じゃない。そんな不確かなものにしたくもない」
「不確か、ですか」
「恋ってさ。いちいち相手に好きかを確認してないと居られなかったりするでしょう? ちょっとしたことで揺れて、疑ってしまったりする。ボクは、翔のことはそんな風に思いたくない。彼の誠実さや仲間思いに、いつでも真正面から応えられる友達でいたいんだ」
「親友、というやつですか?」
「くすぐったいけどね。もちろん、キミらともそんな関係でいられたらと思ってたんだけど。残念なことに、キミはその“不確か”な方がいいみたいだから」
 肩をすくめた海羽は、小さく吐息して。
「…というわけで、もう一度言うけど口外しないで。あれは、翔の気遣いだった。そんなの原因であの子に迷惑かかったら、ボクは一生ボクを許せない。これ以上、自分を嫌いになる要素はいらないんだ」
 じゃ、今度こそ。そう言って手を振ると、海羽はまた踵を返して、寮の中に入っていった。

 那月は立ち尽くすように海羽を見送り、遠ざかる足音を聞いて。
 ややしてから、はぁ、と溜息をついた。
 手の中にある、携帯電話を見つめる。
 ようやっと、海羽との接点が一つ。
 もうすでに“特別”だという翔や、一学期の間ずっと組み続けていたトキヤとは、随分差が開いてしまっていると感じた。
 さっきも、結局若干暴走して、彼女を怒らせてしまった。完全に、ではないにしろ、しばらくは警戒が強くなるだろう。
 根が真面目な彼女のことだから、曲の打ち合わせ中にちょっかいをかけようものなら、ただ嫌われるでは済まない。
「それは、絶対嫌だ」
 なにがあっても、それは避けなければならない。
 となるとやはり、また彼女との距離を気にしながら様子を窺っているのが最良、ということになる。
 近づいたような、そうでもないような。
 これは、思った以上にいろいろと辛い恋なのかもしれない。
 那月は、得た結論にもう一度溜息をつく。

 舌はまだ、あの甘さを覚えている。
 忘れたくなかった。





<Div Align="right">2013.07.19 初アップ
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</Div>