聖川真斗には時折、思い出したように見る夢がある。
 そこにいる自分は子供で、古い寝殿造りの建物で迷子になっている。
 同じ風景、廊下を右に曲がっても左に曲がってもずっと変わらない。
 ぐるぐると、ずっと。
 周囲は夜で、明かりらしい明かりもなくて。
 泣きそうになりながら、ただひたすら廊下を走っている。
 そして、もうだめだと思う程走り回ったところで、視界が開ける。
 暗闇に、ぼんやりと。浮かび上がるのは、薄桃色の花をつける木…桜だ。
 その袂。吹雪のように舞う花弁に包まれている、何か…誰か。
 
 そう。またこの夢だ。
 あの花弁の渦の中には。
 …怖いものがいる。

 見たくないのに見てしまう。
 それが恐ろしいものだとわかっているのに、もう足は動かない。
 ざぁぁ、と風の音がして。花弁が、体の周りを取り巻く。
 捕まってしまう。逃げられない。
 幼い自分が、蒼白な顔をして。
 その目に映すものは<S>     </S>

 違うと気がついた。
 いつもと違う。
 花弁の中は、白い着物の影だったのに。
 見えたのは、早乙女学園の制服だ。

「え…」

 そこにいたのは。
『さ、行こう』
 長い黒い髪を揺らして。
 穏やかに微笑んで、真斗に手を伸ばしているのは。

 <S>    </S>早乙女海羽だった。





 <i>Episode.15 真夏の夜の夢</i>





 意識の浮上と共に気が付いたのは、“匂い”が違うということだった。
 自分の寝具とは違う匂いがする。そう言えば、肌触りも違う。
「…?」
 いろいろ違うと思い至り、真斗は重たい瞼をあげた。
 <S>     </S>知らない天井だ。
 見回した部屋、まったくわからない。白い壁、家具、シンプルすぎる部屋。
 窓にはまだ遮光カーテンがかかっていて、静かにエアコンが風を送っている。
「な、んだ」
 自分の部屋ではない。寮でも、実家でもない。
 慌てて体を起こすと、頭にずきりと痛みが走った。思わず額を抑える。
 同時に、ひやりとした空気を肌に感じた。夏用の薄い布団がはだけて、自分が上半身に何も着ていないと知った。
 寝ていたベッドは、セミダブルだろうかという広さで。右側にやや広く開いている状態で寝ていたことを思うと、もしかしたら誰かいたのかもしれない。
 ……という考えに辿り着いて。それがもしも本当なら、もしかしたらとてもマズイことになっているのではないだろうかという危機感が意識に降りた。そう言えば、腕が少ししびれているような。
 とりあえず、ここがどこなのかを知りたい。
 そう思って、ベッドから降りようとして。その端に、パジャマの上半分が置いてあることに気が付いた。ズボンの方ははいている。同じ生地だから、これで上下ということだろうか。
 状況がまだよくわからないが、半裸でうろつくのもどうかと思い。そのシャツに袖を通して、この部屋から出た。



 ドアを出るとすぐに階段。やや遠く、かちゃかちゃと食器のこすれる音が聞こえた。
 誰かいる。
 やや警戒しながら、階段を下りて。
 開けたそこはLDKで、音のする方に視線を流すと、
「……起きた? よく寝てたね」
 気配か足音か。真斗が来たことに気づいている、その人はキッチンにいて。
「そのまま、左手。壁伝いに行くと、洗面所あるから。顔洗って、ついでにシャワーも浴びたら。着替え、出しといてあげる。ごはん、もう少しでできるから」
 長い黒髪を緩く束ねた後姿。振り向かずとも、誰かはすぐにわかる。
 記憶がつながらない真斗が戸惑っているのを、やはり空気辺りで感じ取っているのだろう。彼女は、
「説明はするから、とりあえず今言ったことを済ませておいで。畳み掛けたって仕方ない、まずは頭をしゃっきりさせることからね」
 決して真斗の方を見ずに、言った。


 バスルームを拝借してお湯にあたると、少しずつ記憶がはっきりしてきた。
 昨夜は。
 確か、父の代わりに、あるパーティに出席しなくてはならなくて。
 いつもそばについてくれるじいやの藤川も別の用事でいなくて。完全に一人で行かなければならないのは初めてだったから、とても緊張していた。
 名代として、聖川家の嫡男として。社交スキルを見定められる場だった。
 それが余計に、プレッシャーになっていた…あたりまでは、思い出せる。
 さて、それがどうしてこんなところにいて、挙句彼女までいるのだろうか。
 キッチンに立って作業をしている様子は、とても慣れていた。つまりは、ここは彼女の住まい? 少なくとも、女子寮ではないはずだ。
 実家、だろうか。
 誰かと住んでいるふうには感じられないが、そう言えば真斗が着たパジャマは男物で、けれども真斗でもややサイズが大きいと感じた。彼女の物ではないのは間違いないだろう。
 ではやはり、他にも誰かが(家族が)いて、今はたまたま不在で…?
「…だめだ。情報が少ない」
 考えてもまるでまとまってこない。疑問符ばかりで、答えが欲しければ彼女の言うようにさっさと身支度を整えて、説明を聞く方がよさそうだ。


 いつの間にその着替えは置かれたのか、真斗が気づかないうちに用意されていたのは見覚えのある服だった。
「これは、俺の…?」
 自分の私服だ。普段着。
 何故これがここにあるのかと首を傾げたものの、もう考えるだけ無駄なのだと思い至って。無言で着替えてLDKへ戻る。
 改めて見ると、確かに一人暮らしではなさそうに見えた。
 部屋の造りは単身者用だろうが、それにしても広い。二人、もしくは三人程度で過ごすように、いろいろと整えてあるように感じる。実際、彼女が朝食を並べたダイニングテーブルは四人掛けだ。
「おかえり。今、全部できたとこ。座って、冷めないうちに食べちゃおう」
 ごく自然に、真斗をテーブルに誘う。
「食べながら話をするのは平気? お作法とか厳しいのでしょ、キミんち」
「…問題ない」
「そう。じゃあ、話をしていくね」
 真斗が席に着いたのを確認してから、彼女も椅子に座る。
 テーブルに並んでいるのは、ごく一般的な和風朝食。
「全体的に塩分控えめだから、味が足りなかったら自分で調節してね」
 さて、いただきます。きちんと手を合わせて、食事を開始する。
 塩分控えめ、と言うが、味はかなりいい。彼女が料理をする、ということからして実は意外に思っていた真斗は、その出来栄えにも意外さを感じた。
 家庭的、という印象がなかったのだ。
 そもそも、喋ったことなどもほとんどなかった。時折見かける程度の関係だったはずなのに。
 …どうして、突然こんな朝食を。それも、手料理を振る舞われているのだろうか。
「<S>     </S>食べながら聞いてね。味がわからなくなるほど悩む必要もないから」
 そんな言葉を皮切りに、彼女は話し始めた。
「まず、ここはシャイニング事務所の社員寮の一室。ボクの部屋です」
「社員寮?」
「別に、社員なわけじゃないけどね。おじ貴のご飯の世話とか、そんなことのために拠点の一つとしてもらってるだけ」
「あぁ…」
「で。昨日のキミ、パーティーに出席していたっていうのは覚えてる?」
 真斗は頷いた。
「…そう。ボクがキミを見つけたのは、結構遅い時間だったんだけど。パーティーやってるとこから近い辺りでね。なんかぐったりしてるから、おかしいなって思って。見つけられてよかったよ」
 それを聞いて。真斗は、はっとした。思い出したのだ。
「そうだ。俺は、その席で、…酒を」
 未成年だと言っても下げてもらえず、断れなくて飲む羽目になった。
 結局、どのくらい飲まされたのかは覚えていないが。
「びっくりしたよ。キミは財閥の御曹司だからね。未成年飲酒で万が一があったら、ほんとに救えないって思ったから。じいやさんも、他の誰も連れてないみたいだったから、ボクが回収したの。でも、酔って潰れてる状態で学生寮に返すわけにもいかなかったから、とりあえずこっちのボクの部屋に泊めたんだ。…これで、現在に至るまでの説明終わり」
 わかってしまえばあっさりしたもので、
「それは…すまなかった。迷惑を、かけてしまって」
「気にしないで。迷惑ってわけじゃないし、酔っ払いの扱いにはまぁ慣れてるからね。けど、未成年に強くお酒勧めるのとか、ボクは嫌だな。飲んじゃ駄目じゃないけど」
 楽しくないとね、なんて。そういう問題じゃないだろうとつっこみたい真斗ではあったが、助けてもらっておいてそれもないかと黙り込む。
「キミが着てた服は、クリーニング出しちゃったから」
「あ、あぁ。…そうだ、これは?」
 今着ている、自分の服を指して。
「朝早いうちに、男子寮行ってもらってきた。神宮寺叩き起こして」
 しれっとして、彼女は言った。
 真斗は、あぁ…と溜息をつく。あの、朝に弱い同室者を叩き起こせるというのもすごいが、後で面倒になりそうな気がする方が問題だ。
「事情話したら、ちゃんと協力してくれた。そんな嫌そうな顔しないであげてよ」
「しかし、…借りを作ったような」
「ボクが独断でしたことなんだから、それで神宮寺がなんかしてくるようならボクに言って。でも、大丈夫だと思うけどね。……まぁ、ある一点を除いては」
 その“一点”について、彼女は言い淀んでいる。
 なんなのだろう、と真斗が首を傾げると、
「ねぇ、全く覚えてない? 昨夜キミが、ここに来てからのこと」
 窺うように真斗を見、彼女は問いかけた。
 真斗は、思案顔で固まる。思いだせたのは、酒を飲まされたところまでだ。その後、ぷっつりと記憶は途切れてしまっている。
「まさか、暴れたとか」
「や、それはない」
「叫んだとか」
「それもない。…一般的な、酔っ払いの迷惑行為と思われるようなことはなかった」
 断言されて、ほっとする…けれど。
 やはり思い出せず、
「その…なにをしでかしたのだろう?」
 おそるおそる訊いてみるのだが。
「や。覚えてないなら、それでもいいんだ。おかしな記憶になってないといいなっていう心配だけ。ただ、神宮寺には、ボクんとこに泊めたっていうの言ってあるから、からかわれるかもねって」
「あぁ、やりかねんな」
「ボクからも、何もなかったとは言ってあるけど。ボクとキミの言うことが食い違うとマズイでしょ。口裏合わせってわけじゃないけど、そこらへんは確認しておかないとさ」
 なるほど、と。真斗は納得した…けれど。
 そのわりには言い淀んだな、と、彼女の様子が気になる。
 そこからはほぼ無言で、二人はそれぞれに食事を進めていった。



 後片付けを手伝うと言ったが、あっさりと断られた。
「だが、一宿一飯の恩義…何もせぬと言うわけには」
 食い下がると、彼女は肩をすくめて、
「じゃあ、ベッドのシーツを取り替えてくれる? 替えは、ベッドの下の収納にあるから。剥がしたのは、さっきのバスルームのほうに。洗濯機あったでしょう、あの上に置いておいて」
 用事を言いつけた。
 頷いた真斗は寝室へ行く。
 改めて見たその部屋は、やはりひどく殺風景だった。

 『ここはシャイニング事務所の社員寮の一室、ボクの部屋です』

 どのくらいここで暮らしているのかはわからないが、LDKの方はもっとちゃんと生活感のある空間だった。
 社員寮は原則、単身用だと聞いたことがある。なら、ここには彼女一人しか住んでいないのだろう。
 それにしたって、この寝室は。
 壁もカーテンも何もかもが白、これはもしかしてデフォルトのままなのではないだろうか。
 個性がない、それともこの潔いまでのシンプルさが個性?
 この部屋を見ても、“早乙女海羽”という人物が見えては来ない。
 奏でる音楽は…デジロックがほとんどだった。打ち込みを多用した、キラキラというよりはギラギラした印象。
 唯一、バラードとも言えるミディアムテンポだったのはレコーディングテストの再試で出された一曲だ。両極端すぎて、聴いた時は驚いた。
 ますます、彼女の人柄が見えなくなった。
「…いい機会だから…少し、知っておかねばならんだろうな…」
 二学期から同じクラスになる。
 今まで、全くと言っていいほど会話はしたことがない。
 何から話すのがいいだろうか。
 どちらも同じ鍵盤を得意とするから、やはりそのあたりから?
 …それとも。
「夢の話をすると、笑われるか…」
 今朝の、あの夢の話を。

 <S>    </S>そう言えば。
 なぜ、夢の結末が違ったのだろう。
 今までに何度も見てきたあの夢は、最後は花弁の中に幽霊を見るのだ。
 それが、幼少期のとある記憶に基づいたものであることはわかっている。あの建物がどこなのかも。
 けれど、なぜ。
 繋がりはしない、あの場所と彼女は。
 そう思ってから、はっとした。
 気になっていたことがある。
 学園内で時折、それは見かけられた。
 自分のじいやと、神宮寺レンの執事に共通していることだ。
 他の生徒にはしないのに、彼女とすれ違ったりしたときだけ、必ず立ち止まって頭を下げるのだ。会釈程度ではあるが、きちんと止まってそれをするのが、ひどく恭しく見えて。不思議だった。
 彼女が学園長の身内だから、というのは理由にならないと思う。
 あの二人が、それだけ丁寧にするわけだから、やはりなにかが。
 まさか、あの夢の場所が関わっているのだろうか。
 そんなはずは。
 けれど、否定しきるだけの要素もない。ほとんど会話もしたことがない相手だ。
 学内データベースで閲覧できるプロフィールも、そんな詳細はない。何より、彼女のそれは空欄が多く、あまり参考にならない。
 ならば、やはり。
 彼女の都合がいいのなら、今日はいろいろと話をしてみよう…そう思った。

 マットレスからシーツを外した時、何やら小さな音が聞こえた。
 カツン、と。ごくごくささやかな音だったが、物が落ちた音だと判断した。
「…?」
 なんだ、と思って床を見回すと、ちょうど今転がり終って停止したものに気が付いた。…ボタンだ。
 シャツボタン、いや、パジャマボタンだろうか。
 真斗はそれを拾って、一度サイドテーブルに置いた。
 そうしてから、彼女の指示通りの場所にあったシーツを出してベッドメイクをすると、洗濯物とそのボタンを持って寝室を出た。



 すべて指示通り。
「ありがとう。お茶入ってるから」
 食事の後片付けを終えた彼女が、LDKに戻った真斗にそう言って。
 真斗は、手に握っているボタンを思い出し、
「これ。シーツを取った時に出てきたのだが」
 彼女に見せた。
 あぁ、と。彼女はそれを受け取りながら、
「よかった。キミが起きたら探そうと思ってたんだ」
 あとでつけなきゃ、と微笑んだ。そして、
「…そうか。キミ確か、裁縫が得意って」
「ん? あぁ。ボタン付けくらいはお安い御用だが」
「じゃあ、後でお願いしようかな。ボクもできなくはないんだけど。…お詫びとして。それで、キミへの用付けは終わりだよ」
 一宿一飯の恩義とやらは、それでいいから。そう言って、彼女はボタンをテーブルの中央に置いた。
 真斗をソファに座らせ、お茶と茶菓子をすすめる。
 けれど真斗は、なにか引っ掛かっているような顔をしたままで。
「…お詫び?」
 さっきの彼女の台詞から、気になった部分を抜粋した。
 海羽はソファには座らず、すぐ近くのピアノ用の椅子に腰を下ろす。
「うん。…だって、キミが取ったんだもん」
 しれっと言われたその台詞は、真斗には強烈な衝撃で。
「俺、が? 取った、というのは、…?」
 海羽も、その反応は予想していたから、
「黙っててもよかったんだけどね。納得いってなさそうだったからさ」
 苦笑して言って。
「…やはり、何もなかった、わけでは…っ」
 言い淀んだのには、やはりそれなりの理由があったのだ。
「んー。丸ごと忘れてるんなら、仮に思い出しても“ちょっとえっちな夢を見た”とかで流せちゃうかなとは思ったんだけど」
 しかも、そんな方向の理由が。
「それは、っ、まさか、俺は…」
 冷たい汗がぶわっと吹き出て、真斗の背を流れる。
「いやぁ、…そうだな。ボクも実は、ほんの少しお酒が入ってたもんだから、ちゃんと抵抗できなかったと言うか、…キミ一人が悪いとかってわけじゃなくて。相殺して、“何もなかった”ってことでいいかなーとか」
「良くはないだろうっ」
「…デスヨネー」
 テンプレートな返事をして。海羽は、
「ボクがちゃんと覚えてる範囲で言うのなら、“最後まではしなかった”で、すべてです」
 真斗を見ずに、そう言った。
 沈黙が降りる。
 ちら、と。海羽が真斗を窺うと、彼は真っ赤な顔をして、絶句してしまっていた。
 その反応も当然、予想範囲内だ。
 海羽は一度天井を見上げ、それからちゃんと真斗の方を向くと、
「ノーリアクションでいいよ。っつか、下手に何かすると、おじ貴にバレる。気づかれてないみたいだから、このままスルーでよろしくね」
「スルーって…」
「なにもなかった。これで押し通せばいいってこと。キミも、記憶に残ってないなら経験に数えることないし」
「…しかし、それはあまりにも失礼なのでは」
「いちいち誠実に対応してたらキリないよ、おぼっちゃん。ちょっとあちこち触ったぐらいだから」
「さわっ…?!」
「…えぇと。もしかして、そもそもソウイウ経験なかった?」
 疑問符に、真斗はさらに顔を赤くして。海羽は、あーあ、と肩を落とす。
「コレは意外。とっくにオベンキョウ済なんだろうと思ってたのに」
「そ、そのようなことを婦女子が軽々と口にするものでは…っ」
「初めてな感じじゃなかったから」
「えぇぇぇぇ?!」
「誰かと間違えてるかなって思ってたし」
「そんなばかな!」
 テンパり具合が半端ない真斗は、とうとう頭を抱え込んでしまった。
 まさかここまでうろたえるとは思わなかった海羽は、いじめてるみたいだな、と呟くと、
「とにかく、キミは忘れてていいから。まぁ、もし思い出したとしても、多分“見えて”はなかったろうから。感触ぐらいじゃないかな。部屋、ほとんど真っ暗だったんだよね。とっさに明かりだけは消したから。これは、ボクの都合だけど」
「いや、しかし…っ」
「キスして触ったぐらいだよ、したことなんて」
「じゅ、十分だろうっ」
「そう? でも、結局キミ、途中で寝ちゃったんだ」
「………」
「ボクを抱えたままでね」
「! ……」
「放してもらえなかったから、仕方なくそのまま明け方まで」
「…ぁぁぁぁぁ」
 腕が少ししびれているような気がしたのは、そのせいか。
「責任とれとか言わないよ? そこまで何かされたわけじゃないし」
 気にしなくていいから、と言い続ける海羽に。
 真斗は、一度顔を上げて彼女を見た後、
「申し訳ないっ」
 さすがに土下座まではしなかったが、ひれ伏さんばかりの勢いで上体を前に倒した。
 海羽はぎょっとして。そして、やれやれ、と吐息すると、
「やめてよ。聖川の嫡男にそんな頭下げさせるとか、ちょっとフクザツ」
 椅子から降り、真斗の傍へ行く。床にぺたんと座ると、覗き混むようにしながら真斗の顔を上げさせた。
「…そりゃ、まるっきりキミに非がないわけじゃない。でも、お互い多少なりとも酔ってたんだ。正気じゃなかった。正気だったら、絶対にあんなことさせない。規則のこともそうだけど、…そもそもクラスメイトと行きずりの関係ってどうなんだよ」
「だが、いくら最終的に未遂だったとしても、自分を助けてくれた相手に…っ」
「だーかーら。正気じゃなかった! もちろん、ソレ理由に人殺したりしていいかって言えばそうじゃないんだけど。今回の件については、ボクもスルーでいいって言ってるんだから。「あ、そう?」で流せるくらいの狡さ持ったら。覚えてもいないものを、ラッキーも何もないでしょ」
 どう説得しても。彼は納得しないのだろうな…と。自分の脳にある彼のデータはわずかなものだが、生真面目である、という項目は入っているから、そうなのだろうと思った。
 実際、これだけ言っているのに、まだ承服しそうにない。
 まいったな、と。海羽はこめかみを抑えた。
「…じゃあさ。キミはどうしたいの?」
 逆に問いかけた。
 疑問符に、真斗はやはり困惑した顔をし、
「どう…するものなのかも、よくはわからない。けれども、何もなかった・はいそうですか、というわけにはいかないと思う。俺が覚えている・いないというのは、関係ない。少なくとも、あなたは覚えているのだから」
 どこかたどたどしくだが、そう言った。
「でも、まさか付き合うとかってわけにもいかないでしょう。キミ、ボクのこと好きなわけじゃないんだから」
「それは…」
 今はいる位置の関係で見降ろしている彼女の、真斗を見上げる視線と仕草を。まじまじと見て。
「…いや、その。見直さなくていいから。今日初めてまともに会話してるんだよ、ボクら」
 呆れた顔を、海羽はして。
「大体、カラダから始まる関係とか…十代の子がするものじゃない」
「む…むぅ」
「それにね、…」
 言いかけた海羽は、けれども口を閉ざしてしまった。
 真斗は首を傾げる。それに? なんだと言うのか。
 彼女の、目が迷う。やがて、
「確実に巻き込むから、ほんとはあんまり近づきたくなかった」
 ぼそりと、言った。
「巻き込む?」
 真斗は問い返す。
「…やっぱり、キミらには話、通ってないんだね。伏せてくれてるものをわざわざ晒すのも気がひけるけど、いずれバレるとは思うし」
 言いながら、海羽は立ち上がった。少し歩いて、ダイニングのテーブルの上に手を伸ばす。そこにあるのは、海羽のスマホだ。彼女はそれを持って真斗の傍に戻ると、また床に座った。
 手元、指先が操るその機械。
 ややして、
「……ハイ」
 画面を、真斗に見せた。
 画像だ。写真画像。写っているのは、海羽と、あと二人。
 …見覚えがあった。
「ボクからしたらこれは、“親族写真”なわけだけど。キミが見ると、どうなんだろうね」
 画面に納まるべく、ぎゅっと寄った三人は、良く見るとどこかしら面立ちが似ている。
 そして、真斗の記憶に一致した情報は、
「九条本家の子供…!」
「まぁ、そんなおののいちゃうようなのではないんだけどね。ボクにとっては、兄さんと妹だから。…そうだよ。聖川も神宮寺も敵わない、この国を裏側から牛耳る旧家・九条家の子供。いずれ、モノノケの頭領になる人たちさ」

 この国のハイソサエティの間でその名前がわからないなんてことはない。
 九条家は、財界・政界ともに癒着が強い旧家だ。しかも、外交にも長けていて、聖川家も神宮寺家も全く頭が上がらない。
 黒い噂が絶えないが、それだけ力があるということだ。
 実際、表だって大きな事業をしているわけでもないのに、財も権力も潤沢で。不可能などないと言われている。
 『九条の血はモノノケ憑き』と言われる所以は、かつてこの一族がそれらを使役していたという昔話があるかららしいが、
「まぁ、血まみれの金を抱きしめてる家だからね。怨霊の一つ二つ憑りついてたっておかしくないと思うけど。死者を操れるとか、いろいろあるんだってね、九条のオカルト」
 それはもう、と。真斗は頷いた。
 そうしてから、はっとする。昨夜の夢が脳裏によぎった。
 夢の中、幼い真斗が逃げ回るあの建物は…。
「…すまない。聞いてほしい話がある」
 夢なのか現実なのか。確証を得られるかもしれない。




 当時、真斗は十歳程度。父親に連れられ、その屋敷を訪れていた。
 春、夜桜を愛でるという趣向の酒宴だった。
 聖川の家よりもはるかに広い敷地のそこは、とても古い寝殿造り。まるでその土地だけ、時代がトリップしているような雰囲気だ。
 子供心に、そのたたずまいは少々恐怖心をあおられた。
 しかも、大人たちが時折こぼしていた会話の中に“この家はモノノケ憑き”という言葉があったから。
 ここはまさか、お化け屋敷なのかと。内心、震えていた。
 父の背について歩き、作法通りに挨拶をして回っていた真斗だが、いつの間にか父とはぐれてしまっていた。
 古いのは建物だけではない。整えられた庭、樹齢のいっていそうな桜の木がいたるところにあって。
 夜桜は幽玄で、綺麗と思わなくもないが怖いほうが強い。
 そう思いながらも見惚れていた、だからはぐれたのだとわかりはしても。
 自分が今どこにいて、どう行けば父のいるところに戻れるのかはわからなかった。
 広い屋敷を、宴の声が聞こえる方にと歩いていたはずだったのに、次第にそれは遠ざかり。どこを見ても造りが似ているせいか、同じところを回っているのかそうでないのかもわからなくなり。
 ただ暗く、静かなあたりに出てしまって。
 心細くて、どうしようかと思っていたところに・・・だった。
 庭園の池のほとり。散り始めの桜の木の下。
 うす暗闇に、ぼんやりと見えたのは白い着物。
 ぎく、と。真斗が震える。
 着物の人影は、虚空に手を伸ばす。やたらと手が白い。包帯が巻かれていると気づいた。
 それは、風に舞う花弁と戯れる指先にまで至った。
 怖い、でも綺麗。
 見てしまった、視線を外せなくて。
 震えながらそこにいた真斗は、その人物の顔を見た。
 半分は包帯でおおわれているが、もう半分は人の顔だった。
 どこかうつろな目。短い黒い髪。女の人に見えたが、“人”だろうかとも思った。
 立ち尽くしている真斗に、どこからか声がかかって。
 驚いて振り向くと、家人らしき婦人がきていて。
 迷われましたか、という問いかけに素直に答えて、それから。
 もう一度、さっきの場所を見たが・・・
 誰もいなかった。




 潜在的に強い記憶として残ったその日の出来事は、やや脚色ありで夢に見る。
 桜の下の幽霊の夢。
 それを今朝も見たのだが、結末が違っていた。
「幽霊は、あなたになっていた」
 話し終えた真斗が、顛末を言って。海羽を窺うと。
 彼女は、んー、と唸りながら、どこか困ったような顔をしていた。
 そして、
「まぁ、結論から言うと、その夢は正しいんだよ」
「ではやはり、俺が見たのは」
「幽霊じゃなくて、当時のボク…だと思う。キミが十歳くらいってことは、七年前くらいでしょう? その頃ならボクは、九条本家邸にいたはずだから」
 真斗は、ふぅ、と吐息する。つながった、と呟いた。酒宴の会場は九条本家邸。主催は、“大殿様”と呼ばれている、現九条家当主だった。ちらりとだけ見たその姿は、いかにも“モノノケの頭領”という風情で、とても恐ろしかったと記憶している。
「そっか…ニアミスしてたのか、ボクら」
 海羽の方はひどく複雑そうな顔をした。
「キミんちのじいやさんとか、神宮寺の執事さんとか。会うと絶対頭下げるから、これは気づかれてるなって思ってたけど。それぞれの主に報告がいってないってことは、まだ様子を窺ってるってことなのかな」
「様子?」
「本家の子じゃないし、大殿様もボクのこと認めてないからね。“九条”として物の数には入ってない、ってのが現状なんだけど。さっきの写真画像で見た通り、本家の子二人とは、仲良くやらせてもらってる。兄さんが…若様が九条を継いだとき、あるいは大殿様がボクを認めた時…ボクと直接のコネクション持ってるってことが、自分たちの坊ちゃんにとってはたして有利なのかどうなのかってこと」
「認められていない?」
「分家の、それも勘当されて九条の名につくすべてを放棄した娘の子だからね。本当なら、一生ほっとかれるはずだったんだけど。ちょっと事情があってね。あ、でも、戸籍は確かに早乙女だし、ボク個人としても、あの家は“母方の親戚”ってだけなんだ。だから、現状のままなら、ボクと親しくてもそんなにメリットはない」
 家と家のつながり的に、と。真顔で話す彼女は、普段学校で見かけていた彼女とはまた雰囲気が違う。これは、真斗は良く知っている空気。実家で父と対峙しているときに、少し似ている。
「キミは聖川の嫡男だからね。親の代からのよりも、キミ自身の直接のコネクションはあってもいいと思う。兄さんと面識はある? つなぎくらいはしてあげられるけど」
 真斗は、会ったことくらいは、と返した後、きゅ、と唇を結んで。それから、小さく吐息すると、
「…すまない。そういった話は、あまりしたくない」
 声音低く、やんわりとだが拒絶を示した。
「まさか、あなたと九条家がつながっていると思わなかった。早乙女学園にいる間は、家のことは…なるべく忘れていたいのだ。もちろん、それで通るわけでないことはわかっている。だが、ここにいる間は、芸事に没頭していたい。自分が定めた目標に向かって、自分が何者かも忘れて突き進みたい」
 海羽は真斗を見上げ、真斗は海羽を見下ろし。
「ごめん。そうだね。ボクだって、学校の人と九条の家の話なんかしたくないよ」
 苦笑して俯いた彼女は、でも、と呟くと、
「コネクションの話はともかく、ボクと深くつながるっていうのは、その後ろにあるモノともつながるってことだとは覚えておいて。早乙女のおじ貴もだし、九条の兄さんたちもそう。クラスメイト以上はまずい。…だから、スルーでいいって言ってるんだ」
 話題を始めに戻す。
 真斗は、また頬を赤くし、
「それと…これとは」
「覚えてないことに責任とれって言われても、キミ困るでしょ。困らないの?」
「だから、そちらが覚えているなら」
「騙されてるかもとか思わないの?」
 海羽には苛立ちが見える。おとなしく頷けばいいのに…そんな彼女の胸の内が見える、どこか不機嫌そうな表情。真斗はそれを見つめながら、
「…そんな嘘をついても、あなたは得をしないだろう。自分があの九条の姫君だとわかっても、あなたはその権力の恩恵を考えない人だ。なら、あなたが俺を陥れて聖川とつながりを持っても、なんの利益もない。嘘をつく必要すらない」
 狡さを持ってこの現状から逃げることは、自分の中の理に反する。覚えているかどうかが問題ではないのだ。
「謝罪が必要でなく、代償も求めないと言うなら、少なくとも“今は”という但しをつけて保留にしておいてほしい。嫁入り前の娘に…その、ふしだらなことをしようとした、その事実をなかったことにするのは…俺が許せない」
「潔癖なんだね」
「…これが、俺だ」
「そう」
 海羽は吐息し、わかった、と吐いた。
「きっと苦労するよ、キミ。“エラきゃクロでもシロになる”って世界に、いずれ行かなきゃなんないのに」
「それは、自覚している」
「芸能界も、だよ」
 真斗の膝を、ぺちっと叩いて。海羽はやれやれと肩を落とした。


「やっぱ、黙っときゃよかったかな」
「いや、黙っていられた方が、俺は困る。万一思い出して、何も聞かされていなかったらと思うと」
「相手は他の子に変換してヨロシク」
「…そんな器用さは持ち合わせていない」
「持っときなよ。えー? グラビアとかさ、好きな子の姿に変換したりしないの? 男の子ってそういうものじゃないの」
「他はどうか知らんが、俺はそんなことはしない」
 きっぱりと言い切られて。海羽は、ぷ、と噴き出した。
「なんだろ。キミの彼女はきっと、ものすごく愛されて、ものすごく大事にされるんだなって想像つくけど、…行き過ぎると重いよ、それ」
 要注意、と。
「重い…」
「言われたことない?」
 疑問符を投げた後。海羽は、
「ごめん」
 即座に謝りの台詞を飛ばした。
 真斗は、むぅ、と眉根を寄せ、
「…訂正はしないが、そう素早く謝られるのもな…」
「だって。ソウイウ経験ないって、もしかしたら女の子と付き合ったこと自体ないかもって」
「口に出さなくていい。…男子校だったからな」
 海羽は、真斗が座っているすぐ横辺りに肘をつき、ソファに寄りかかる。
「けど、別にキミ、話しやすいしいい子だと思うんだけど。カタいのはそうだけど、…ボクは嫌いじゃないよ」
 ふふ、と笑った彼女の表情がどんどん柔らかくなっていっていることは、真斗も気が付いていた。男嫌い、と聞いていたが、それほどでもないのだろうか。
 それに、まだそう長く付き合いがあるわけでもないのに真斗に対して『話しやすい』などと言ったのは、彼女くらいだ。
「恋愛禁止の学校だけど、いいなって思う子とかいるんじゃないの? ボクが手伝えそうだったら、言ってよ。なんか、青春って感じでいいなー」
「…生憎だが」
「そうなの? Aクラス、可愛い子多いのに。ちょっとくらいなら、恋したっていいんだよ? っていうか、恋を知らずに『好き』は歌えないよ。芸の肥やしだと考えて」
「不誠実だ」
「おぉっと。ま、それもそうだけどねー。けど、芝居とかで恋人同士のアレコレ、結構求められるよ。距離感とか、言葉の間合いとか、気持ちの揺れ方とか。知らないよりは知ってた方がいい。…まぁ、コレはボクより、他の男の子たちに聞いた方がいいでしょ。神宮寺とか、経験値はものすごいだろうし」
「……絶対に嫌だ」
「あっはは!」
 声を立てて笑った彼女は、思っていた以上に幼い印象だった。
 得たイメージが、どんどん塗り替えられていく。
「それじゃあ、仕方ないね」
「必要になったら、その時に何とかする」
「間に合わないよ、そんなんじゃ。…もう、面白いな、キミって」
 よほどツボだったのか、彼女はしばらく肩を揺らして笑っていた。黒々とした髪が、動くたびに艶を光らせる。
 様を見ながら、真斗は内心で考えを巡らせる。
 美人だ、とは思っていたけれど。学内にいる時は、ほぼ女の子たちに取り巻かれていて。それこそ、神宮寺レンと同類としか思えないような振る舞いをしていて。
 苦手だな、というのが、今までの。
 けれど直接話してみると案外気さくで、女にありがちな媚びたところがない分、さっぱりと付き合いやすいと感じた。男性的、とまでは行かなくても。
 中性的…むしろ少年のような人だ、とは思った。
 

「まー、なんにしても、だ」
 切り替えの言葉。
「とりあえず、退学フラグにニアミスどころかガッツリ突っ込んでるっていうのは、全力で黙っててね。ボクになんかあると、約二名、巻き添えるから」
 彼女がダブルパートナーで卒業オーディションに向かうことは、真斗もすでに知っている。作曲者がこけるわけにはいかないだろう。
「黙秘隠蔽に命かけてください」
「…あぁ」
「二学期から同じクラスだし、学園祭の件もあるし。何かと顔合わせる機会増えるけど、お付き合いの段階をかなりすっ飛ばしてることは絶対に気づかれないように」
 一発退学だよ、と。
「覚えてないことで退学なんてヤでしょ」
「…そうだな。とても損をした気分だ」
「特に、神宮寺はそういうこと鋭そうだから。気を付けて」
「…奴にだけは知られたくないな…」
 どれほどからかわれるか、わかったものじゃない。
「ボクらがいきなり親しく話してても、それはいくらでも誤魔化せるからさ。得意楽器が鍵盤っていう点も共通だし、…神宮寺には、近いうちにボクの親戚の話しておくから。その辺からも繋がったって言っておけば、なんとかなる」
 そう言ってから。彼女は、少し俯いて。
 何故表情が陰ったのかわからず、真斗は、どうした、と声をかけた。
 海羽は、
「…なんか、なんでこうなったかなと。もっと普通に、学校の友達って始まりをして、びくびくなんかせずに付き合っていきたかったなと」
「それは…俺が悪いのだ」
「や、誰が悪いとか、そういうのはいいんだよ。そんなの、そもそもボクがキミを見捨ててればよかったってハナシでしょ。それをしなかった時点で、これは確定未来ってことだ。なんかが、引き合わせたのかな」
 顔を上げて、どこかぎこちない印象でだが、微笑んだ。
「いいや、始まりはどうでも。問題はここから、だからね。楽しくやっていきたい、キミと…キミらと。これからよろしく」
 反射的に、真斗は頷いた。
 握手の手を伸ばしたのは海羽からだ。
 その様子に、若干の違いはあれども、今朝見た夢の彼女が重なった。
 過去の記憶を再生していたあの夢が、最後を変えたのは、この未来のためなのか…そんなことを思って、真斗は海羽の手を取った。

 “始まりはどうでも”
 きっかけはただそれだけに過ぎず。
 けれど、真夏の短い夜に見た幻…とするには、少々難ありな現実だ。
 





 

<Div Align="right">2013.09.13 初アップ
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