夏休みの前半は、本当にあっという間に過ぎて行った。
 秋の学園祭の件が本格始動になることを音也から聞いた翔は、最初に話を聞いたときほどには自分が高揚しないことに気が付いていた。
 理由なんかわかっている。
 この企画のプロデューサーの一人、早乙女海羽の状況のせいだ。
 一学期中も、やたら課題をやっているとは思っていた。それがまさか、あんな理不尽なハンデを埋めるためだったなんて。
 学期末のミニアルバム制作課題も…誰もが『お金を払ってでも聴きたい』と言った仕上がりなのに、彼女は降格した。
 あとで人づてに聞いた話では、出来がどうでも降格だけは決まっていたのらしい。
「…海羽。そういうの黙ってられるの、けっこーキツイ…」
 挙句、そのハンデの上に更にダブルパートナーがのった。二人共を入賞させなければその時点で退学。0か1かの瀬戸際だ。
 …結局、あれっきり顔を合わせていない。直接会う機会がなく、彼女と会った友人たちから話を聞くばかりで。
 あの夜、目の前で彼女が気を失って。そのまま、保護者に連れ去られた。
 電話で話しはしたけれど、やはり顔を見るまでは落ち着かない。

 嫌な予感ばかりが胸を満たす。
 退ける一波を求めていた。




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Episode.17 『レゾンデートル』</i>





 用もなく尋ねるのは気が引けた。
 けれど、用を捏造することもできず、だからと言って用ができるまで待つこともできず。
 ただ『会いたかったから』というストレートな理由だけを引っ提げて、その場所を訪れた。
 海羽に会うために、本当はどこに行くのがいいのかを、翔は知らない。
 夏休みが始まってから、海羽は学生寮にはいないらしい…先日、七海春歌に会った時に聞いた情報だ。だから、学生寮は除外した。
 それ以外で、彼女が居そうな場所なんて。
「…ここしか、知らねェンだよな…」
 一学期中。放課後の彼女は、かなりの確率でここにいた。
 学園校舎内、レッスン室だ。その、特定の部屋。何が違うのかと思う。他の部屋も、造りそのものは同じだ。しいて言うなら、窓から見える景色に若干の違いがあるくらいで。
 夏休みの現在、課題などの名目で学園に来る生徒ももちろんいるが、やはり数は少ない。
 しんとした廊下。翔の歩く足音が響く。
 目的のドアが近づいた。
 防音の部屋だが、これだけ静かだともしかして聞こえるかもしれない…
 そう思い、澄ましていた翔の聴覚に。
 それは、突き刺すような鋭さを持って届いた。

 バァン、という不協和音。

 思わず、びくりと震えて足が止まった。
 なんだ、と思考が呟いて。
 その後に続いた、音を拾った。
 感情のままに叩きつけるような。
 これが音楽だろうか、と面食らう程に、荒々しい。
 旋律をなしてはいるが、これはあまりにも。
 攻撃的すぎる。
「…海羽…?」
 演奏者が誰なのか、それはほとんど直感で。
 聞こえるピアノ、見える世界は混沌の戦場。
 荒みきったその世界に、けれどもはっきりと彼女を感じた翔は、ややためらいながらもそのドアを開けた。
 いつものレッスン室に、狂ったように鍵盤を叩く男装のピアニスト。
 押し寄せた、歪んだような音に翔は眉根を寄せた。音が不快なのではない。…感じ取れる彼女の感情が痛いのだ。
 鍵盤を叩き、打ち鳴らし。
 いくらか演奏は続いて、それは翔が彼女のほど近くに来たことでピタリと止んだ。
 翔は、どう言葉をかけていいのかわからず立ち尽くしていた。
 肩で息をする彼女は、数回の呼吸の後で溜息の様に深く息を吐き。そして、椅子から立ち上がった。
「み…」
 とりあえず、名前くらいしか出てこなかった翔が、それを呼ぼうとして。
 けれど、彼女自身の行動によって阻まれた。
 衝動的、という表現がしっくりくるだろう。
 俯いたまま翔に近づいた彼女は、そのままの勢いで翔に抱きついたのだ。
「っ、え?!」
 気持ちの準備もなく、突然抱きしめられた翔は面食らい、体を硬直させた。
「お、おい、海羽…?」
 割と強い力で、翔を抱きしめる彼女は。どう見ても、平静ではない。
 髪から、やや甘いシャンプーの香り。彼女のそれはどこか独特で、もしかするとシャンプーではなく別の何かかもしれないと思った。
「どうしたんだよ、なんかあったのか?」
 疑問符に、彼女は何も答えない。
 両腕から抱きこまれてしまっている翔は、抱き返してやりたくてもできないというもどかしさで。
「おいってば。返事しろ、海羽!」
 生まれた苛立ちは、決して彼女に向けたものではなかったのだが。口調が荒くなってしまって、彼女がびくりと震えたのがわかった。
 海羽は、ごめん、と小さく言って、束縛を解く。そのまま二歩下がった彼女が、やはり俯いたままで自身の体をぎゅっと寄せると、
「…えっと、…どうもしてない。ごめんなさい」
 それは、彼女らしいとからしくないとかという範疇を超えた、か細すぎる声だった。
 自分のせいで彼女を不用意に怯えさせたのだと翔は理解し、バツが悪そうにしながら、
「いや、お前さ。そんな様子で『どうもしてない』って、信じられるわけねーだろ。いきなり抱きついて来たり…別に、それを怒ったりはしてないけどよ。理由言えって。那月じゃあるまいし、スキンシップと違うんだろ? なんかあって…なんだろ?」
 ここは学園内だ。どこで監視の目が光っているとも限らない。そんな場所で、彼女からというのは明らかにおかしいのだ。
 普段から女の子相手には結構スレスレなことはしているようだが、基本的には規則遵守の姿勢でいる海羽が、たとえばからかいの意図を持って…というのも考えがたい。
 やはり、衝動なのだろう。
 縋りたい、衝動。
「さっきの演奏も。不協和音から始まるってなんだよ。…今まで、どんなに激しく弾いたって、あんな弾き方しなかったじゃんか」
 普通の状態ではない。今もまだ、顔を上げない彼女は、表情も顔色も全く窺わせない。これが、もっと身長差のある二人だったなら、全くわからないところだ。
 それでも翔は、わざわざ覗き込んだりはせずに。
「誰かに話して楽になるようなことなら、俺が聞くから。どうせ、今日は一日空いてるし。愚痴でも何でも付き合うぜ」
「…翔…」
 海羽は、はぁ、と息を吐き出した。溜息とは少し違う。それから、ピアノに戻ると、鍵盤の蓋を閉じた。
「…場所、移ろう。学校の中じゃない方がいい」
「そうか? 俺は構わないから、お前のいいようにな」
「…うん」
 こくん、と頷きはするが、まだ顔は上げない。
 二人は、レッスン室から出た。




 学生寮とは違う方向に歩いていた。
 途中、海羽が何度も立ち止まる。息を調えているようだった。
 確かに、今日は結構気温が高いから、長袖長ズボンの海羽は(普通に考えれば)相当堪えるだろう。けれど、それとわかっていても彼女は半袖を着ないわけだから、なにかよほどの理由があるのだろうなと思って翔もそこには言及しない。
「大丈夫か?」
 問いかければ、一拍あけて彼女は頷く。
 そうしてやってきたのは、一件のマンションだった。
「ここ…社員寮」
 エントランスに向かいながら、海羽がぽつりと言った。寮、にしては洒落た外観だ。
 翔は、建物を見上げながら、「へぇ」と呟いた。
 一歩先を歩く彼女を追って、翔も向かう。
 やがて、一枚のドアの前。彼女は鍵を出し、それを鍵穴に差し込んだ。
 表札を見た翔が、
「さおとめ…お前んち? え、実家?」
「寮だってば。単身者用の。実家は別だよ。早乙女の家は、もっと違うとこにあるもの。ここは、…避難所かな」
「なんだそりゃ」
 ロックを外して、開いたドア。押し広げて、海羽は翔を招いた。
 玄関には、他に靴はない。
 中に入ると、海羽は真っ先にエアコンのスイッチを入れた。
 密閉されていた室内の気温はかなりで、息苦しいほどだ。
「いや、海羽、まず換気からじゃねーか」
「換気扇も回す」
「そうじゃなくてよ…」
 ごぉぉ、という、エアコンが全力全開で頑張る音が聞こえ始めて。間もなく、ひんやりした空気を感じるようになった。
 LDK。そこそこの広さのその場所に、やたらとシンプルな家具たち。添えつけなのかなと思いはするが、全体的に色がない。
「翔、座ってて。麦茶とアイスコーヒーとオレンジジュースと桃のカクテルがあるけどどれがいい?」
 冷蔵庫を開けて、飲み物のラインナップを言う彼女だが。
「…明らかに一個、年齢的に俺は飲んじゃ駄目なのがあったよな?」
「じゃあ、ボクがそれにする。翔は?」
「飲むの?!」
「…二人とも麦茶でいいか」
 結局そうなって、海羽は麦茶のポットを出した。
 翔は、思わずほっと胸をなでおろした。もちろん、成人済の海羽がアルコールを摂取してはいけないわけではないが、さすがに真昼間だし。
 グラスに氷を入れ、麦茶を注いで。用済みのポットを冷蔵庫に戻し、海羽は二つのグラスを手に、リビング部に戻って来た。
 ソファに翔を座らせて、グラスをテーブルに置くと、
「…ボク、着替えてくるね。テレビでも見てて」
「ん、あぁ」
 相変わらず表情を窺わせないまま、彼女は踵を返した。向かって行く先には階段があり、二階があるのかと翔は呟いた。
 見回す部屋。グランドピアノと、シンセサイザー。傍にあるミニテーブルの上には、クリアファイルがいくつか。翔は立ち上がり、その傍に行った。意外なものが見えたのだ。
 クリアファイルと一緒にまとめられているのは、五線紙だ。
 楽譜を使わない海羽が、五線紙を持っているということ自体が違和感だった。
 絵も何もついていない、半透明のファイル。楽譜は手書きではなく、印刷物だった。けれど、それを目で追い、既成曲ではないなと思った。
「…なんだこれ…海羽の曲にしては…」
 アップテンポだが、どこかコミカルな印象を受ける。ロック、というよりは、ポップスだ。
 別の誰かが作った曲だろうか。
 ファイルごとに、違う曲の楽譜が入っている。その中には、翔も知っている海羽の曲もありはしたのだが、ほとんどが知らない曲だ。
 課題用、かもしれない。
 そう結論付けて、翔はとりあえずファイルと楽譜を元の場所に戻した。
 この場所にいることが多いというのは、他の場所に比べてやや雑然としていることで察した。学生寮にいない、と春歌が言っていたわけだから、きっと休みの間はこちらに来ているのだろう。
 追ったハンデを埋めるべく、もがくからこその…さっきの演奏なのだろうか。
 あの、荒れすさんだ旋律は、出来ればもう二度と奏でさせたくない。
「…海羽…」
 話してくれるのだろうか。抱えているものを。


 それから、五分ほど待っても。海羽は戻ってこなかった。
 まさか倒れでもしているのかと不安になって、翔は階段を上る。
 突き当りの部屋、ドアが開いている。
「おーい?」
 呼びかけながら、一応中が見えない位置で壁を叩いた。ノックの代わりだ。
 けれど、返事が聞こえない。
「…入るぞ」
 返らなくとも断りを入れて、翔はその部屋に踏み込んだ。
 …白い部屋。簡素、という言葉しか浮かばない。
 そんな中、彼女は。床にへたり込んだ状態で、かくりと項垂れていた。
「っ、海羽?!」
 慌てて寄って、肩を支えると、
「…平気」
 か細く、そんな声が聞こえた。
「馬鹿か! 平気な奴は、こんな風にへたってないんだよ!」
 もっともなことを言い、翔は彼女を抱き上げた。
 体格差はほとんどないと思う。けれど、彼女の体は予想以上に軽い。
「しょ…っ」
 さすがに驚いたのか、海羽は目を丸くして。けれども、抵抗できるだけの余力はないらしい。
 ごく近く、ベッドの上に彼女の体を寝かせると、
「お前、主治医とかいる? 医者じゃないにしても、誰か呼ばないと。学園長か…日向先生でいいのか?」
 携帯を入れたボディバッグをリビングの方に置いてきてしまったから、それを取りに行こうとした。
 けれど、
「っ、やだ!」
 そんな、拒絶の言葉と。同時に、体を起こした彼女が、手を伸ばして翔のシャツの裾を掴んだ。
「え…」
「医者はもういい、行ってきたから! おじ貴と龍也も…呼ばなくていい…っ」
 訴えは、どこか必死だった。やはり俯いて、髪がぱらりと降りて彼女の表情を隠す。
 そして。
 続いた、
「…翔がいい…」
 その、消えてしまいそうな台詞を耳にして。
 込み上げた感情を、翔は制御しきれなかった。
 ほとんど、飛びかかったも同然だ。シャツの裾を持っていた彼女の手を掴んでグイと引き上げ、そのまま押し倒した。
 二人分の重さに寝台が軋む。
 左腕、肘をついて体を支え。右腕は、彼女の首の下へ。肩辺りを抱きしめるような体勢。
「…お前さ。ほんとどうしたんだ」
 抑えたような、低い声で。海羽の耳元で、翔は。
「どうもしてない」
「してなくないだろ。なんなんだよ、ぐずっちゃってさ」
 可愛くてたまんねーんだよ。
 …とまでは言葉にできず、頭の中でだけ呟く。
 海羽は、
「うるさい」
 そう言いながら、掴まるように翔の背辺りに手を回した。
 翔の心臓が、ドキンと跳ねる。とはいえ、鼓動そのものはとっくに加速を始めている。
 ヤバイ、と。意識のどこかで、何かが警笛を鳴らした。
「ごめんね、翔。…会いたかったんだけど、なかなか時間が合わなくて」
 口調は相変わらず、覇気がない。翔は少し距離をあけて彼女の様子を見ようとしたが、それが嫌なのか、背にある手に力がこもって体を上げられなかった。一層密着する。
 この体勢になったのは自制がきかなかった翔の責任だろうが、…まさかここまで彼女側に拒否がないとは。
「夏休み入って、課題とか事務所の雑務とかちょっとめまぐるしくて。学園祭のもあるし、隙間見つけてって思ってたんだけど、みんなが…特に翔が参加できるって時に限って、ボクの方が都合つかなくて」
 そこまで喋って、海羽は、はぁ、と息を吐いた。
「けど、翔、何か用事があって学校に来てたんじゃないの?」
「ないよ。一日空いてるって言ったろ」
「…用事なくて、学校に?」
 確かに、それは疑問だろう。翔は、あー、と唸ってから、
「お前、探してた」
 正直に答えた。
「ボクを?」
「あぁ。会いたかったからさ」
 もはや、何を誤魔化す必要もないだろう。
 海羽は、そっか、と呟いて、翔の背にある手をきゅっと握る。翔のシャツを掴むように。
 彼女の仕草一つに、いちいち翔の鼓動は高鳴って。落ち着け、なんて思っても、命令無視もいいところだ。
「携帯…そう言えば、切ったままかも」
「医者へ行ってたから?」
「うん。朝一からだったし、忘れてた」
「いいのか?」
「いいよ。鳴られたって、今は出たくない。ホントに用がある人はメッセージ残すし、メールにもするだろうし」
「それはまぁ、そうだろうけど」
「せっかく翔と居るのに、邪魔されたくない」
 むくれた声音。
 これはダメだ。降参だ。可愛いのにもほどがある。
 彼女の額に小さくキスをして、翔は内心で巨大なため息を吐いた。
 肩を抱く腕をそのままにして、ごろりと体の向きを変える。横向きになると、そのまま彼女を両腕で抱きしめた。
「翔…」
 腕の中。彼女の声には、少しだけ困惑が見えた。
「見つかると怒られるだろうけど、今のお前にはコレが必要だろ」
 装えないほどダメージがあるのだろう、というのが翔の解釈だ。
 海羽は、見栄を張るタイプだと思う。空元気や強がりは標準装備で、それを他人に気づかせないようにうまく装う。普段の“海羽様”は、少なくともそれが地ではないと翔は思っている。ああして、何事も余裕を持っているように見せているだけではないか、と。
 今の彼女は、武装解除状態だ。それも、本人の意思ではなく、…やむを得ない何かがあるのだろう。
「…ったく。荒れてるわいじけてるわ、いい加減ホントのこと言えって」
「荒れてはいるけど、いじけてはない」
「じゃあ、その荒れてる理由は?」
 問いかけに、彼女は黙り込む。翔も黙って、ゆっくりと彼女の頭を撫でている。
 子供をあやす要領だな、なんて口に出すとまたいじけるだろうから、言わないでいるけれど。
 海羽は、しばらく黙った後に、
「疲れてるだけだよ。立て込んでたから。今、充電中」
 そう言って、ぎゅうと翔にしがみつく。
 真相を言うつもりはないらしい。
 この期に及んで…と翔は思いはしたが、そこを無理に聞き出そうとするとこじれそうな気がしたから、仕方無げに溜息をつくことで無理矢理納得した。
 それよりも、自分の方が問題だ。この心拍、緊張状態、そして…はたして、今の状態は“友人”の枠内でおさまるものなのだろうか。
 すっかり懐かれている、それはいい。けれど、こうまでなんの警戒なくというのも少々複雑なものだ。
 とはいえ、下手にそのあたりに言及すると、絶対に自爆するという確信。ここは、とにかく平静を装うしか。
 …などと、考えを巡らせている翔に、
「ねぇ、翔」
 伺う声。
「ん、?」
「…眠れそうな気がするから、寝ちゃってもいい? そしたら翔、帰っていいから」
「眠れそう…って、眠れてないのか?」
「うん、まぁ。もともとあんまり、眠れる方じゃなくて。疲れてくると、余計眠れなくなるんだよね」
 それを聞いて、“荒れている理由”はそういうことなのかなと思う。でも、それなら初めから寝不足だと言えばいいとも思う。別に、軽んじて笑う気もないのに。
「なら、眠っていいよ。…けど、帰っていいって…」
「だって、退屈でしょ」
「や、別に。帰ってほしいならそうするけど」
 言い回しに少しだけ、意地悪なニュアンスを含めてみた。
 海羽は、
「居てほしいけど…けど、話し相手もできないのに居てもらうのはなんか違うし…」
 葛藤めいた呟きを、ぶつぶつと。
 ここまでしておきながら、遠慮している風だからまたそれがおかしくも可愛らしい。そう思いながら翔は、
「別にいいよ、話し相手とかそんなの。今の海羽には休養が必要で、その中には“俺が居る”っていう要素が結構重要なものとして含まれてる。なら、俺はここにいて、お前に必要なものを提供するのが一番いいんだろ」
 抱きしめる腕を、少し緩めて。体を引いて、距離をほんの僅か。
 顔を見たくてしたことだったが、彼女はそれを拒むように俯く。
「…海羽」
 柔らかくだが、咎める口調。
 頬を撫でながら、かかる黒髪を払う。指先で、ちょいとつつくと、観念したように海羽は顔をあげた。
 今日、はじめてまともに見た彼女の顔色はかなり悪く、これを隠すためにずっと俯いていたのだなと翔は理解した。
「また、ひどい顔色だな」
「…今はまだ、いい方だよ」
「どんだけだよ、まったく」
「こないだの時は、一ノ瀬が取り乱してた」
 不意に、自分ではない名前が出て。かちん、と神経に触れる不愉快。
「こないだって?」
「…一学期終わる直前。翔に最後に会った日の、何日か後。あの時も、眠れてなくて。でも、降格が全校告知になる前に、一ノ瀬にだけはちゃんと自分で言わなきゃと思ったから」
「ふぅん?」
「一ノ瀬の方は、ちゃんと評価されてるはずだし…でも、ボクといることでなんらかのデメリットがあるのは間違いないから、ホントはもう関わらない方がって言いたかったんだけど」
「…ダメだったのか」
 こくん、と頷く。ダメだったから、一ノ瀬トキヤは海羽と組んで卒業オーディションを目指すのだろう。そしてそれは、
「…那月にも、おんなじこと言ったのか?」
 翔のルームメイトも同様だ。
 海羽は、少し不思議そうにしながら、
「四ノ宮は、ボクからは特に。終業式の後、おじ貴のとこに二人が呼ばれてきて…そこでボクは、学園長命令として二人のパートナーになれって言われて。彼がボクの音楽性を気に入ってるのは聞いて知ってたけど、……あの子、大丈夫なのかな。判断能力とか」
 そこの心配をするのか。翔は、やれやれと呟き、
「それは大丈夫だと思うぞ。こと音楽に関しては、那月は本当に天才だ。昔から知ってる俺が保証する」
 ヴァイオリンも、ヴィオラも。そして今、歌唱も。
「…ダブルパートナー、いけそうか?」
「駄目でも行くしかないんじゃん」
「そうだけどよ」
「大丈夫だよ、ボクは。たとえばまたこの心が壊れたって、あの二人を押し上げて見せるから」
 そう言った彼女の、目に。映ったのは、翔の怪訝そうな顔。
 『たとえば、また』
 例えでも、またということは以前にもあったということだ。
「海羽、あのさ。今じゃなくていいから、いつかでいいからちゃんと説明してくれよ? 学園長は“時が来たら”みたいなこと言ったけど」
 心が壊れるようなことが、過去にあって。海羽の、時折出てくる奇妙な言動が、そこに起因しているのなら。
「…こんなお前を何度も見て…心配でどうかなる」
 翔の記憶の彼女が、苦しむ姿で塗り替えられていく。笑っていた彼女を思い出せなくなりそうだった。
 海羽は、少しぽかんとしていた。
 やがて、
「やっぱ翔は優しいね」
 また、俯いて。さっき翔が離れた分、海羽が距離を埋める。
「ありがとう」
「しつこいけど…助けが要る時はちゃんと言えよな」
「うん」
 強く抱き合いながら、それきり彼女が黙ってしまったから。翔ももう、何も言いはしなかった。
 静かな時間が流れていって、やがて彼女が眠りに落ちたと知ったころには、翔の心拍も落ち着いていた。
 けれど、心の中に広がっていた靄は、晴れはしない。

 彼女の髪を梳くように撫でながら、翔は溜息を噛み殺す。
 好きだ、と言ってしまいそうな自分を押し込める。
 感情が暴走しないように、注意をしながら海羽を抱きしめる。
 愛しいと、大切だと思う程になにより距離が大事だと確信する。
 近すぎると、かえって彼女を傷つけてしまいそうな気がして。
 自分まで、彼女の枷になるわけにはいかない。

 抱えているものを、海羽は明かしてはくれなかった。
 過去に何があったというのか。けれどそれをいまだに引きずっているから、彼女は苛まれ続けている。
 それでも、定めた目標のために…あるいは、彼女を支える人のために前へ向かう。
 彼女の誓いを知る翔には、彼女を止めることはできない。
 時折こうして、我儘とも言えないようなそれをきいてやるくらいしか。
 踏み込めるなら、そうしてしまいたい。ここまで許されているのだから、もしかするかもしれない。
 そうは思っても、踏み込めない自分がいる。
 こうして抱き合うことが、愛情ではなく信頼であるなら。
 ここを間違えるわけにはいかないのだ。

 彼女にとっての“来栖翔”が、どんな意味を持つものなのか。
 そして、彼にとっての“早乙女海羽”が、今後どうなっていくのか。
 今はまだ、お互いの存在理由を確かめ合うには…何かが足りない気がしていた。







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