学園祭まで、あとどのくらいだろう。
 Aクラスメンバーの合同練習が終わり、その後も音也は一人で残っていた。
 他の皆は用事があるらしく、それを無理言って付き合わせるのは確実に違うと思って明るく見送った。
 ダンスレッスン室。大きな鏡の前に一人。
 苦手ではないが、大勢で合わせて踊る経験はあまりなかった。それに、音也と翔はチームの中でも飛び抜けて踊れる、ということを踏まえ、難易度の高い振りも担当している。
 だからこそ。
 花形を任されたからこそ、軽い気持ちではいられなかった。





<i>Episode.20 『いつかたどり着きたい場所』</i>





 簡単なターンだったのに、軸足がふらついて転んでしまった。
 助ける誰もいず、どたんと床に伏した時に手をついた…のはともかく。
 つき方が悪かったのだろう。
「ひねっちゃったかな…」
 ずきり、手首に痛みが走る。
 情けない。こんなことを同室のアイツに知られたら、またあれこれと小言を言われるのだろう。
 マズったなぁ、と溜息をつきながら。
 音也は、医務室のドアを開けた。
 夏休みだが、学園内で活動している生徒が多くいるため、ここは誰かしら駐在していると聞いていた。
「センセー、シップくださーい」
 ドアが開いたから誰かいると思っていた。けれど、室内はがらんとしている。
 あれっ、と思いながら。ふと気配を感じて、ベッドがある方を見た。窓も仕切りのカーテンも閉まっているが、外からの光がその仕切りのカーテンに薄く影を映している。人影に見えた、から。
 なんだ先生そっちにいるのか、と。まったく深く考えもせず、そちらに歩いて行き。影は一人分だったから、先生だけがいるのだと思ってひょいとカーテンを開けた。
「センセー、シップ…」
 けれど。
 そこにいたのは、教員の誰でもなく。
「えっ?!」
 振り向いた、その存在は目を見開いて。声も出ないほど驚いたのか、ただ茫然と音也を見上げている。
 白い、医務室特有のベッドに腰掛けて。同じように白い、けれど細く長い布を手に持って。それを体に巻きつけていたのだというのは、裸の上半身にいくらか巻かれている状態だからわかったことだ。
 …そう。裸の。
「っ、あ! その! ごご、ごめんなさいっ!!!」
 大慌てで回れ右、いっそ医務室から逃げ出せたらよかったのかもしれないが、残念ながらそれ以上は足が竦んで動かなかった。
 背を向けたから大丈夫、なんて安心して固く閉じていた目を開けたら、…全然大丈夫ではなかったと知った。
 彼が向き合っているのは薬品棚だが、その扉のガラスに、背の向こう側が映っていたのだ。
 向こうも背を向けているから、映っていることには気づいていないだろう。
 何故、きちんとカーテンを閉めなかったのか。
 俺の馬鹿、と自分を責めても今更仕方がないのだが。
 見てはいけない…そうは思っても。
 それが、ただの後ろ姿ならば目を逸らすこともできたろう。少年誌のグラビアだって、あのくらいの露出はある。けれど、目が離せなくなるようなものが、そこにはあった。

「…一十木」

 静かに、名前を呼ばれて。
 あぁ、俺死んだ…と。絶望が意識に降りる。
「ごめんなさいぃ、いるの知らなくて、あの、先生だと思って」
 下手な言い訳は命取りになるだろう。けれど、“知らなくて”と“先生だと思って”は嘘ではないから、ちゃんと言っておいた方がいい…かもしれない。
 ところが、
「うん。わかってて開けただなんて思ってないよ。夏休みだもんね、教員以外がいる確率なんか低いどころじゃないし。キミが来たことに、気づかなかったボクがいけないんだ」
 罪が軽くなるどころか向こうに行ってしまった。
 それはそれで、ちょっと違う気が。
「ううん、俺、ノックもしないで部屋に入ったし、断らないでカーテン開けちゃったし」
「気配に気づけなかったボクが悪かったんだから」
「違うよ! 海羽さん悪くないって!」
 これは、埒が明かなそうだ。
 …そう。そこにいたのは早乙女海羽で、巻いているのはおそらくサラシだろう。今日はAクラスだけで練習をしていたから、Sクラス側を主に担当している彼女が学園に来ているとは思っていなかった。でももしかするとSクラスも練習があったのかもしれない。時間の都合で、合同にはできなかった…あれ、今日はそんな予定だっただろうか。
 音也の思考は、すでにぐっちゃぐちゃだ。
「って言うか、ここにいたってことは、海羽さん、体調悪いの?」
 黙りこくってしまうのは性格上出来なかったし、喋っていないと混乱が増すばかりのような気がして。とりあえず、彼女がいた理由を訊いてみる。
 海羽とは、秋の学園祭のこともあって夏休み中はわりと一緒に過ごしていた。もちろん、他のみんなと、ではあるが。そんな中、音也が知ったのは、…海羽はあまり健康ではなさそうだ、という漠然とした印象だった。
 いつも顔色が悪く、パートナーでもあるトキヤや那月に気遣われていた。特に翔は、一番仲がいいせいもあるのか、誰よりも甲斐甲斐しく世話を焼いていた。少なくとも、その三人は知っているのだろう。彼女の健康状態が、常に低い位置を推移していることを。
「寮まで戻れなかったから、ここで休んでたとか…」
「そうじゃないよ。キミは、怪我でもしたの?」
「あ、うん、転んで手をついたときに、捻ったみたいで…湿布欲しくて」
「そうなんだ。みてあげるよ、もう少し待ってて」
 ガラスに映る彼女は、手に持っているサラシをくるくると体に巻いている。
 その背中は、大半が彼女の髪で隠れてはいるのだが。
 見えている部分と、巻くときに髪を動かしたりするせいで見えてしまう部分に。明らかに異なる様子を見確かめた。ガラスの汚れや影などではない。
「あの。み、海羽さん…それ、どうしたの?」
 尋ねてはいけない<S>   </S>そう思っても、口から零れてしまうのを止められなかった。
 背後の彼女が、ぴたりと止まる。
 やがて、盛大な溜息が聞こえた。
「ごめんね、気持ち悪いもの見せちゃって」
 そこで謝られるとは思っていず、しかもそんな理由でだとも思いもせず。音也はきょとんとする。
 キモチワルイ、とは、欠片も思わなかった。
「え、なんで謝るの? さっきからおかしいよ、海羽さんってば」
「おかしい? だって、不快な思いをさせた」
「全然不快じゃないよ!」
 だからと言って、得をしたとも思ってはいない。ただ、
「むしろ、心配になった」
「心配?」
 きし、と。ベッドが軋む音が聞こえた。彼女が立ち上がったのが見える。サラシを巻き終わり、シャツに袖を通している。
 男装も大変だな、なんて。背中しか見えていないから、正面の事情はわからないが。
「最初は、アトピー、かなとか思ったけど…でも、ちょっと違うような気もして…」
「うん。違う。…火傷なんだ」
「やっぱり! っでも、虐待じゃないよね?!」
 また、彼女の動きが止まった。
「だって、その。俺、施設育ちで。俺みたいに身寄りがなくて来る子がほとんどだったけど、中には親の虐待で避難してくる子もいて…火傷が一番多かったから…」
 しせつ、と。彼女が呟くのが聞こえた。
 身支度を整え終えた彼女は、
「お待たせ。座って、一十木」
 それは、いつもと変わらない彼女の声音。




 細い指先はひんやりと冷たくて、自分の方が熱くなっているのかと緊張した。
 丁寧に湿布を貼り、丁寧に包帯を巻いて行く。その手つきが慣れているのは何故なのか、訊きたくても訊けなかった。
 多分、踏み込んではいけない領域に。音也は、入ってしまったのだ。それがわかるから、身動きが取れない。
 ほとんど会話をしたことがない彼女の、どこに地雷があるのか全くわからない。
 白い肌に、赤黒い跡が広がっていた。まだらになっているだけではなく、爛れたようになっているところも見えた。
 暑いのに長袖長ズボンで、襟のボタン一つの緩みも許さないのは、そういうことだったんだ……。彼女によって包帯を巻かれた自分の手首を見つめて、音也は考えていた。
 火傷。あれは多分、炎そのものに焼かれた痕。施設で見かけた“虐待の証拠”は、煙草か熱湯。彼女の肌に残るそれとは、様が違っていた。
 以前、興味本位で見た学園のデータベース。けれど、早乙女海羽のページはほとんどが空欄で、情報らしいものは何もなかった。
 何も知らない。何も教えない彼女の、過去。
「…訊いてもいいの? 海羽さんの事」
 ベッドに腰掛け、手当てを受けた音也は問いかける。海羽は使った薬品や道具を片付けに行き、戻ってきて…音也の隣に、一人分の距離を開けて座った。
「教えられることなら、いいよ」
「内緒なの?」
「そうじゃないけど。ボクにわからないことじゃなければ、ってこと」
 本人のことを訊くのに、わからないことがあるのだろうか。
 音也は、なにかはぐらかされているような不快感を覚えつつ、
「その、体の事、は?」
 直球で訊いた。
 虐待か否かを。彼女は答えていない。もしも本当に“そう”なら、これは不可侵領域だ。
 施設にいた時も、誰もが自身の境遇にあけすけになれたわけじゃない。
 虐待…可能性はなくはないと思っていた。ここの学園長でもあるおじの話は時折話題の端にものせるのに、もっと近い家族のことは欠片たりとも聞いたことがなかったからだ。
 音也の、伺う眼差しに。
 彼女は深く溜息をつき、
「虐待じゃないよ。火事に遭ったんだ、昔。その時の、が、残っただけ」
 答えた。
「火事」
 音也は無意識に呟く。虐待ではなかった、少し安堵する。けれど、
「…家族は、それで」
 続いた彼女の言葉。即座に音也の脳内に警笛が鳴る。
「っ、ごめんなさい!」
 謝罪で阻んだ、彼女にその先を言わせてはいけない…そう思った。
 二人の間にあった空間、音也はあいたそこに両手をつき、体をよじって彼女に向けられる限り正面向けて頭を下げた。土下座ほどにはいかなかったが、やや身を乗り出した形になったせいか、彼女はびくりと震えて少しだけ音也から離れた。
「あっ…」
 逃げられた、あるいは避けられた。傷ついた顔をした音也に、海羽は申し訳なさそうにしつつ目線を逸らす。
「海羽さん、えっと…近いのは、だめ…?」
 さっき、手当てをしてくれた時も。少し不自然な距離だった。
 “男嫌い”という彼女のデータを思い出す。
 そうか、と思って。音也は自分から距離を作ろうと動き、かけて。
「ごめん、いいんだ」
 シーツの上についていた手を、彼女に掴まれた。
「あと、今の、手をついたとき、痛かっただろ? 手首、大事にして。キミ、ギターなんだから。それから、…今回のステージはキミと翔にかなり負担かかってるってボクも思ってる。怪我するくらい無茶しなきゃなら、そこは変更もするし」
 包帯の上を、そっと撫でる。さっき手当の時も見ていた、綺麗に整った指先。短くされた爪に飾りはない。
「べ、別に無茶とかじゃないよ! 怪我したのは、俺の不注意だから。それに、負担じゃなくて、期待って言ってほしいな」
「でも、」
「頑張りに水差さないで、ってこと。今のうちに、何が危ないとかどうすればいいとかわかっておかないと、アイドルになったときに困るじゃん?」
「……うん、それは、…うん。けど、」
「この程度はどうってことないよ。痛いけど腫れてはないわけだしさ。ねっ」
 彼女は心配している、それは痛いほどに伝わってきた。音也は胸の奥にくすぐったさを自覚する。嬉しいのだ。心配されていること、そして、触れられていることが。
 少し、間があいた。
 それから、海羽はそっと音也の手から自分の指を離した。
「避けてごめん…急に来られると、身構えちゃうんだ。だから、ダメって言うか、びっくりしただけだよ」
 離れて行く、彼女の手を。見つめる音也の目は、どこか名残惜しげに。
 海羽の手は優しくて、包帯越しでも心地よかった。
「男の人、嫌いなの…?」
「ん、嫌いって言うか、怖い、かな」
 わりと即答された。適当に答えている感じでもない。歩み寄れているのかもしれない…そう思いながら、音也は海羽を伺う。
「俺も、怖い?」
「……ちょっとだけ」
「そっか」
 沈んだ声、表情に。海羽は、でも、と言った。
「でもね、…一十木はね、なんか違うんだ」
「違う?」
「うん。翔も、なんか違うって思ったけど、一十木はもっと違うんだ。ええと、…その、どう言ったら…いいんだろう」
 口元に手を当て、考え込む仕草。場を取り繕うための言い訳を考えているわけではなさそうだ。
 音也は首を傾げ、少しだけ彼女の表情を覗き込む。
 …近くで見ると、やはり整った顔をしていると思う。男装をして『カッコイイ』にシフトさせてはいるが、それは多分、女子から見たかっこよさの話で。男の音也から見れば、海羽は“美人”で、そして…案外“可愛い”。綺麗系の顔立ちだけれど、ふとした表情に、やわらかい可愛らしさがのぞくのだ。二十歳過ぎている、とは思えないような、どこか幼い印象の。
 やがて、考え込んでいた彼女が、
「……懐かしい、かな」
 答えを一つ、紡いだ。
「懐かしい?」
「翔に感じた懐かしさとは、ちょっと違うんだ。一十木の方が、もっと、…刺し込んでくるような」
 ぐっ、と。刃物を持って刺す、ような仕草をして見せて。海羽は一瞬止まって、また思案顔をした。どうやら、的確な表現にはたどりつけないようだ。
 こんなところも、何だか可愛らしい。そう思いつつ、音也は、
「翔と俺が懐かしいの? あんまり似てないと思うんだけど。ああでも、二人ともサッカー好きとか、そういうのは似てるか」
「弟と同じ年なんだよ、二人とも」
「あぁ、なるほど!」
 納得、と同時に。何故“懐かしい”なのかを考えて、音也はふと真顔になる。
 さっき、彼女が言いかけたのを止めたのは自分だ。火事、そして。
 『家族は、それで』
 <S>   </S>失った。
 きっとそう続いたのだろう。
 ただ会えないのではない。二度と会えない相手だから、近いものに懐かしさを感じた。翔よりも音也の方が、その弟に近いのかもしれない。
「どんな弟さん? やっぱ、俺たちみたいにじっとしてないカンジ?」
 思い出させるのは、酷だろうか。そう思いはしたが、止まらなかった。
 何が何でも止めなければいけなかったと後悔したのは、すぐ後だった。
 海羽は、どこか気まずげに苦笑して、
「…あんまり覚えてないんだよね」
 そう言った。
「実は、その火事の辺りから以前の事、それから、火事以降の二年ちょっとくらいの記憶がほとんどなくて。人に話そうにも、自分が事実だってわかってることがあまりに少ないから。訊かれても答えられないことばかりなんだ」
 確かに、火傷の痕の具合からすると、この一年二年で負ったものではなさそうだった。けれど、だからこそあれだけ残っているということは、相当ひどかったのだろう。そんなことがあったから、記憶をなくした…と言われても、それは成程と頷ける。
「もしかして、それでさっき『わからないことじゃなければ』って…?」
「うん、そう」
 ごめんね、と。言われて。
 音也はすうっと後ろに倒れ込んだ。彼の体を受けとめた掛布団が、ぼす、と音を立てる。寝台が少し揺れた。音也はそのまま体を横にし、海羽に背を向けると、掛布団をかき寄せて顔をうずめた。
「一十木?!」
 慌てて、海羽は寝台に上がった。音也の背に触れる。
「どうしたの、大丈夫?!」
「大丈夫だけど、大丈夫じゃない…」
 ふるふると音也の背と肩が震えている。
 自分がしでかした一連の事柄に、激しく失望していた。
 なんという失態。申し訳なさで視界が潤む。
「俺、この短時間で、何個、海羽さんの地雷踏み抜いたの…?」
 見られたくなかったのだろう“体”、知られたくなかったかもしれない“過去”。
 プロフィールのほとんどが空欄なのは、演出でもなんでもない。記憶の喪失によって不確かになった“彼女”という存在を表せないだけなのだろう。
「なんかもう、穴があったらってのはこういうキモチなんだね…海羽さん、ほんとごめんなさい…俺、バカで」
「言うほど地雷じゃないよ、一十木、落ちこまなくていいから」
「ほんと…?」
 涙目のまま顔を上げれば、心配そうにこちらを伺っている彼女の姿…が、かなり近い。
 え、この距離平気?
 音也の方が驚いてしまう。
 海羽は、ポンポンと音也の背を叩く。そう言えば、彼女の方から触れてきている。さっきは距離を取ったのに。
「家族のこと覚えてないのは、もうどうしようもないことだから。でも、ボクとその家族がどんなだったかを覚えている人がいるから、大体のことは話に聞いて知ってるからそれでいいって思ってる。ボク自身がそれで納得してるから、地雷じゃないよ」
 音也のことを覗き込んでくる、黒い瞳。
「でも、寂しくないの?」
 問いかけに、彼女の瞳が曇る。
 音也は彼女を見つめて、
「俺は、孤児で。父親は誰かわからなくて、母親は俺がうんと小さい時に飛行機事故で死んじゃった。母さんの妹が俺のこと引き取ってくれたけど、そのおばさんも早くに亡くなってしまって」
 自分が施設にいた経緯を話す。
「初めから思い出がないのと、あるはずのものが消えてしまっているのは、場合が違うよ。どうしようもない、なんて言わないで。きっと、取り戻せるから」
 前向きな言葉。音也らしい、と海羽は淡く笑む。こういうところも彼女の中の“懐かしい”を刺激するのだが。本当を言えば、それが弟なのか他の誰かなのかもわからない。
 彼女の記憶に棲んでいるのは、一連の事件後におじと暮らし始めてから出会った人々。
「…取り戻す、か」
「信じられない?」
「そうじゃないよ。そういうことじゃない、って言うか、……まいったな、キミとこんな重たい話するつもりなんてないのに」
 海羽はわしゃりと自分の髪をかき回した。長い黒髪が不規則にもつれて、艶が乱れる。
 不本意、確かにそんな表情をしている彼女を見つめながら、音也は体を起こし、姿勢を整えた。彼女に話すつもりはなくても、音也には聞く覚悟があるらしい。それを示す行動。
 海羽は少し迷っていたが。やがて、やれやれ、と肩をすくめると、
「隠してはないけど、不用意に拡散はしないでね。本当に重たい話だから」
 記憶をなくしたいきさつを話すことにした。


 火事に遭ったのは八年前。その時に家族を失い、ショックで記憶をなくした。入院先の病院から、諸事情あって別のところへ移され、約二年後に早乙女のおじのもとに引き取られた。その時点で、実は言葉もなくしていた。その後、おじのもとで守られながら、リハビリをしていた。幼馴染だという友人二人と共に。
「喋れなくなっていたボクに、おじ貴は言葉より先に音楽を戻した。話せなくても、音楽はそういったハンディキャップを越えて他人とコミュニケーションできるツールだからって。弾き方は、体が覚えてた。つたない音がやがて旋律になって、ボクはそれに没頭した。…忘れていられたから。音楽の中にいると、ボクが置いて行かれてしまったということを忘れていられたんだ」
 じっと、自分の指先を見つめて。海羽は小さく溜息をつく。
 “置いて行かれた”という感覚は、音也も共感できた。寂しさを紛らわせる、支えになったものが音楽だという点も、音也と海羽は似ていた。
「今、海羽さんは、ひとりなの?」
「家族ってこと? パパがいるよ、養い親」
 それが学園長の事なのは、あえて尋ねて確かめるまでもなかった。あれだけお互いに気にしているのだから、それは家族故にということだろう。
「じゃあ、もう寂しくは、ない?」
 踏み込んでくる、音也の問いかけ。
 海羽は一度目を逸らし、それから瞼を伏せると、
「寂しい、のかな。だから、翔の中に弟を探してしまうし、キミに懐かしさを感じるんだと思う」
 ぽそりと答えた。
 ほんの少し、沈黙が下りる。
 そして、
「…俺。俺が、海羽さんの弟になるよ」
 音也は言った。
「え?」
 海羽は目を丸くする。
 にこ、と。音也は笑い、
「海羽さんがよければ。俺が、海羽さんの弟になる。あ、もちろん、代わりとかじゃなくて。新しい弟」
 その発言は、何を狙ったわけでもなく。ごく自然に、音也の口から飛び出した。
 海羽はきょとんとして、音也を見つめる。
 他意も何もない。そこにあるのは、純粋な魂。
「施設では、みんながきょうだいだからね。学校だってそうだよ、みんなきょうだいで家族だよ」
 笑顔でそう言ってから。音也は、あまりにも海羽が呆けているからか、少し慌てたように、
「あっ、ダメならダメでもいいから! でも、友達にはなれるでしょ? もうなってるよね?!」
 それはもう情けない顔で問いかける。
 海羽は。
「…っく! あ、あはは…!!」
 お腹を押さえ、屈み込み。そのまま、ころんと寝台の上に身を横たえて、大笑いを始めてしまった。
 音也は腕をついて上体を起こし、
「え、…笑うとこじゃないよぉ」
 抗議しつつ。ついさっき距離を取った人が、こんなすぐ隣で無防備に身を転がして笑っている…という現状に、まだちょっと理解がついて行かない。
 もういいの? 怖くないの?
 声に出して問いかけたらまた逃げられそうな気がして出来ない。
「んっ、ごめ! もう、もうね、一十木…か、かわい、く…」
 けれど、笑いすぎの海羽はうまく言葉が出ず。
 可愛くって。
 と、言いたいのだろうとは思った。
 音也は、エーッ、と声を上げてむくれ、
「可愛いって…そりゃ、海羽さんのがずっと年上だから仕方ないけど、男にソレは褒め言葉じゃないからね!」
 と、言いつつも。彼女がこんな風に笑っているところを見るのも初めてだから、普段のどこかすましたような落ち着いた印象とはだいぶ違うことに、少々戸惑ってもいる。
 案外とっつきやすい人なのかもしれない。男嫌いで、いつもたくさんの女の子を連れていて。クラスが違うからそういう目立つところしか見ていないけれど、本当はもっと、…もっと。
「そーらしいよね。いっつも翔が怒ってるから、そーなのかって思ってた。ボクの知ってる男の人は、“可愛い”って言って喜ぶ人もいるから、褒め言葉じゃないっていうのは、学校に来るまで知らなかったんだ」
 大概笑って、目の端に着いた涙を指先で拭って。海羽はあーあと溜息をつき、
「でも、そういう可愛さというか、素直さというか。一十木のソレは、悪いものじゃないし、むしろとても好ましい。ボクは一十木のそういうとこ、すっごく好きだよ」
 笑った顔は、いつも見る御馴染みの“海羽様スマイル”とはまた違う。
 弟になる、宣言を。性別を理由にはね退けられたら。けれど、今のところ彼女はそんなこと言いもしないし、何よりも音也に対して『すっごく好き』と言った。
「その、海羽さんは、俺のこと、嫌じゃない?」
 おずおずと問いかけた、それに。海羽は、きょとんとした後、あぁ、と息を吐いた。
「嫌いなら、一番最初に追い出してるけど」
「そ、そう?」
 ちょっとだけ怖い、と言っていた。けれど、“怖い”は“嫌い”とは違うようだ。
「…まだ、怖い?」
 さっきできなかった問いを投げる。
 言いながら、でも怖いと思う人の前でこんな風に横になったりするだろうか、とも思う。
 海羽は、少し目を泳がせてから、
「弟のこと、怖いって思わないよ」
 そう答えた。
 添えられた笑顔がとても自然で、自分が受け入れられたのだと音也は感じた。
 ねぇちゃん、か。
 自分で言い出しておきながら、今更感慨深いなどと思っている。
「なんか、施設では俺より上ってわりと男ばっかだったから、おねぇちゃんって新鮮」
 音也もころりと転がって、同じ高さで視線を結ぶ。
 こんな寝台の上で、二人で向き合って身を横たえているなんて。一つ間違えば、即時退学にもなりえる状況なのに。不思議と、危機感がない。
 きょうだいなら。こんな風に、どちらかの部屋に集まって、ベッドに転がって話をしたりするのかもしれない。
「いいおねぇちゃんになれるかはわからないけど。可愛い弟は歓迎するよ」
「だからぁ、可愛いは嫌だってば」
「アイドルなんだから、可愛さも必要だよ。カッコイイだけじゃあ、お客さんが偏っちゃうじゃないか」
 割合の問題だよ、と。海羽は人差し指で音也の鼻をつつく。
 触れることも、距離も。もう、何の制約もないように見えた。
 音也はそれが嬉しくて、こみ上げてくる感情を満面の笑みに変えた。
「でも、ねぇちゃんにだってカッコイイって思われたいじゃんかー」

 受け入れてもらえたことが、何よりも嬉しい。





 寮に戻った音也は、帰りすがら聞いた“弟もアイドルを目指していた”と言う海羽の話を思い出していた。
「弟…か」
 呟いて。ベッドにごろりと転がると、今日の医務室でのことも脳裏に浮かんでくる。
 警戒態勢にあるときとそうでないときが極端だった…海羽のことを思い出し、苦笑い。
 あれは少し、危なっかしい人だ。
 それが、単純な感想だった。
 この人は大丈夫、という結論した相手には、フレンドリーすぎる。あれでは、いつか騙されて酷い目に遭うのではと不安になる。
「…うん、弟だもんな。ねぇちゃん守んなきゃ」
 手首に巻かれた包帯を見つめて、音也は決意を新たにする。
 きっかけは親近感、けれど上辺だけのつもりはない。
 二人しか知らない、きょうだいの契り。それでも、二人にとっては真実で現実。姉であり、弟であり、気持ちはもうすっかり家族なのだ。
「俺…なるよ、アイドルに。それで、いつか…」
 <S>    </S>いつか。
 輝くステージに、姉弟で上がりたい。
 それを夢見た、今はいない“きょうだい”のために。